大鷲神社

マーカーは大鷲神社です。

大鷲神社
[当社は出世大鷲神社と称し、御神体は剥製の大鷲です。
この地は天沼本村と呼ばれた農村地帯で、主に東京への野菜供給地でした。大正10年1月11日、現在の本天沼二丁目37番付近の畑地にあった赤松に飛来した鷲を、村の人たちが悪戦苦闘の末仕留めました。羽を広げると2メートル以上もある大鷲でした。村中の人達が見物に来、村に祟りでもあると大変なので、おとり様としてお祀りしようと話がまとまり、一社を建立しました。その後毎年11月の酉の日には市がたち、天沼本村だけでなく近郷近在の名物として狂言や踊りなどの余興を催したり、賑やかなお祭りがありました。今でも酉の日には、町の有志により商売繁盛を祈る熊手が売られています。
石の鳥居は、昭和63年に建てられました。
前を通る早稲田通りは拡張され、今では平坦な道となっていますが、昭和初期の区画整理前は大鷲神社から西へ向うところは“げんぼう坂”と呼ばれ、かなり急な坂道で荷車を引く者にとっては難所の一つになっていました。
平成3年3月  (「132 大鷲神社 【神社】(下井草1丁目31番1号)|杉並区公式ホームページ」より)]

[天沼や井草の農家では、取り入れた稲や麦を脱穀する籾のまま保存しておき、必要な分だけ、大場通りにあった関口精米所へ持っていって、精米や精麦をしてもらっていた。料金は現金ではなく、精製した現物のうちなにがしかを置いてくるならわしだったそうである。精米所の当主関口長助さんのところは、この近在では一軒だけ猟銃の免許を取得していた。
 大正十三(1923)年の年が明けて間もないある日の昼過ぎのことだそうだ、天沼の横田鉄造さんが何気なく冬晴れの空を仰ぐと、大きな松の木の枝に、これまでも見たこともない巨大な鳥が止まっているので、すっかりたまげてしまった。そこで、息せききって関口さんのところまで注進の及んだのである。長男の関口喜恵之助さんが猟銃を持って駆け付けると、話のとおり、怪鳥は松の枝に翼を休めて悠々とあたりを睥睨している。「まさしくワシにちがいない。それにしても、あれだけの大ワシが天沼にくるとは・・・・・・」と高鳴る胸の鼓動をしずめながら、喜恵之助さんはねらいを定めてズドンとぶっ放した。確かな手ごたえがあって、ワシはよろよろとしながらもしばらく飛んでから、本村の九条さんの竹藪のなかに落ちた。喜恵之助さんは夢中で竹藪に走って、倒れている取りを見つけた。ところが、近づいた喜恵之助さんの気配に気づくと、それまで死んだようにぐったりしていたワシは、いきなり頭を起こし、王者の貫禄を誇示して羽を広げ、猛然と威嚇した。不意を衝かれた喜恵之助さんは、猟銃を振り上げ、台尻で何度もぶったたいて、ようやく仕留めることができた。羽を広げると二メートルを超す大もので、体重は七キロに近かった。
 うわさはたちまち広がって、天沼はもとより近在から見物人が押しかけた・当時喜恵之助さんは二十歳そこらの若者だったため、手柄を父親に譲った。それで、世間には当主の関口長助さんが撃ったと流布されたのである。
 奥多摩でもめったに見かけることのない大ワシが、どうして天沼に降りてきたのか、と人々は不思議がった。「こんなばかでかい鳥を撃ち殺して、たたりでもあっては大変だ」というわけで、関口さん宅では庭の一隅に祠を建てて、「大鷲神社」として手厚くおまつりした。
 大ワシは剥製にされて、神社のご神体になっている。
 神社はその後、早稲田通りに移されて、いわゆる「お酉様」として熊でも売られ、今もたいそうなにぎわいをみせている。大ワシは思いがけない福を呼び込んだのである。現在は下井草一丁目になっているが、三十年前の住居表示変更までは、ここも天沼の一画であった。  (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 大正時代」より)]

大鷲神社 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が大鷲神社です。

大鷲神社本殿前のカメラで、本殿右に案内板があります。