「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
「戦前の東京23区が見渡せる空中写真を地理院地図上で初公開」 – 「荻窪駅周辺」[1936年頃写真には四面道以西が拡幅され、荻窪駅前周辺は拡幅以前の状態がとらえられています。1945-1950年写真には青梅街道(天沼跨線橋)・旧青梅街道(大踏切)がとらえられています。]
天沼跨線橋
[青梅街道の幅が広げられたのは、昭和七年で、バスが登場した。
青梅街道は、昭和八年十二月に、新宿から高円寺の蚕糸試験場(現・蚕糸の森公園)までが舗装され、九年頃から、東京府により現在の二十五メートル道路へと拡幅工事がはじめられた。工事は、旧高円寺一丁目から四面道の旧清水町一番地までを範囲として、中央線の跨線橋(天沼橋)前後を残して、昭和十五年に完了した。これにより、片側一車線のせまい青梅街道が現状のように拡幅されて倍以上になったが、どういうわけか一方的にすべて道路は北側に拡張され、既に改修済みになっていた四面道以西と接続したのだった。しかし、駅北口前あたりは拡幅されず、南側も整備される以前の細い道路で、依然、国電中央線と地上交差のままに交通の流れはスムーズに運ばなかった。
青梅街道というと、幅広い跨線橋を越えた今の道を思うのは当然だが、当時は、天沼橋(陸橋)の新宿寄りの二又交差点を左に入り、大踏切り(現在、地下道のあるところ)で線路を渡り、そのまま線路沿いから駅北口交番の脇を抜けて四面道に行く道であった。その頃の道路幅は駅前あたりはことに狭く、荻窪駅北口交番脇に、その名残を残している。
昔を語るのに、そのことを知る人は現青梅街道にたいして、その間を旧青梅街道と言って説明する。
青梅街道を現在のように通そうと考えられたのは、昭和十五年であった。
旧青梅街道は道幅が狭く、何といっても電車の通過ごとに踏切で交通がストップされてしまう問題をかかえ、その対策として青梅街道を陸橋で中央線を跨ぎ北側に移そうと計画されたのである。荻窪北口前の一帯は原っぱのままだったので道を通し、青梅街道の道幅を拡げようということである。
立体高差の跨線橋工事は、昭和十七年に着工された。そして、太平洋戦争が始まり激化してくると、桃井二丁目の中島飛行機製作所(現・日産自動車荻窪工場※移転後桃井原っぱ公園)をはじめとする三鷹、立川方面の軍需工場の青梅街道は輸送の動脈としてますます重要であるとして工事を急がれた。しかし、その頃になると第二次世界大戦は逼迫して、工事をしようにも橋をつくるための資材はなくなって、もう土木工事どころではなくなっていた。そのうえ、完成を目前にした昭和十九年十月の空襲で、爆弾が橋の中央部を直撃し破壊してしまった。貨物電車を狙った艦載機が、陸橋の下に逃げ込んだところを爆弾を落としたのであった。その時、陸橋には、牛に引かれたおワイ車(人糞運搬車)がたまたま通りかかっていて、爆弾のあおりで横転し、道いっぱいに人糞を撒き散らしたという、おまけまでついて、中央線は一時途絶した。
陸橋を架けるために土盛りしたところがそのまま残っていたが、ここを地元では〝桜山〟といった。この小高い丘から見る夕日は美しかった。その麓になる八幡通りの角にアンチベルベリンというビタミン剤を製造している工場があって、敷地いっぱいの桜の林だった。春には見事な花を見ることができた。
終戦をむかえて都市再建とともに、青梅街道の中央線の跨線橋工事が国鉄管理のもとにはじまった。長さ四十二・四メートル、幅が青梅街道と同じ二十五メートルの陸橋が昭和三十年二月に完成された。そして、「天沼橋」と命名された。
この橋の完成によって、青梅街道は全てが拡幅されて名実ともに幹線道路となった。そして、〝開かずの踏切〟都よばれた大踏切は閉鎖され地下道となり、元来の青梅街道の使命を陸橋側にゆずった南側街道は、旧街道的存在として、その名残をとどめている。 (「天沼8町内:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 青梅街道の交通の今昔」より)]
カメラ位置は天沼陸橋交差点でカメラ西方向右が青梅街道・天沼陸橋で、左が旧青梅街道です。
天沼跨線橋上のカメラです。
カメラ位置は荻窪駅北口交番西で、カメラ南東方向中央建物が荻窪駅北口交番で、その左側が青梅街道・天沼陸橋で、右が旧青梅街道です。