マーカーは屋敷分浅間神社です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で府中左方向に屋敷分と記述されています。
屋敷分浅間神社
[屋敷分浅間神社の創建年代等は不詳ながら、江戸期には屋敷分村の鎮守社だったといいます。
●新編武蔵風土記稿による屋敷分浅間神社の由緒
(屋敷分村)富士浅間社
除地、四段、小社、持添新田にあり、社地塚の如く平地より築出す、村内の鎮守、例祭九月九日、村持(新編武蔵風土記稿より) (「屋敷分浅間神社|府中市美好町の神社 – 猫の足あと」より)]
[屋敷(鋪)分(やしきぶん)は、現在の美好町3丁目の一部(旧甲州街道沿い)にに集落の中心があった村落です。幕末の地誌には「民戸60戸、往還(甲州街道)の左右に並居る」(『新編武蔵風土記稿』)とありますが、これは甲州街道の開設(慶安頃=1648~52)に伴ない移動したもので、もとはかなり南側の方にあったといわれています。「屋敷分村」には「荒宿」という小名が記録(『風土記稿』)されていますが、これは本宿に対する新宿のことで、古く甲州街道の宿場に関係があるようです。
地名の起こりは、国府時代の国衙の在庁官人で、その後六所宮の社家(神官)となった鹿島田・佐野・中善寺氏などの屋敷があったことによるようです。 (「六花(由来碑)」より)]
[屋敷分の庚申塔
暦の上で六十日ごとに回ってくる庚申の日の晩 講中が集まり夜更かしをする習俗がかつてありました。人の体に三尸という虫がいて、眠ったすきに体を抜け出し天帝に人の罪を告げてしまうので、寝ないで夜を明かすのです。この「庚申待」という行事は、中国から伝わってきたもので、江戸時代には民間信仰として広まり その供養のための庚申塔が数多く造立されました。みな村内安全や五穀豊穣を祈ったものです。
この庚申塔は屋敷分村(現・府中市美好町三丁目)の人たちが、延宝二年(1674)二月に建てました。市内で最も古い庚申塔で、本尊の青面金剛像と三猿が彫られています。昭和四十六年に府中市立郷土館、昭和六十二年には府中市郷土の森博物館に移され、数多くの人々に親しまれてきましたが、平成十三年五月に浅間神社境内が整備されるに及び、もとの場所に戻されました。旧・屋敷分村の人たちの絆の証としてこれからはいつまでも、地域の安全と発展を見守ってくれるに違いありません。 (「(説明)屋敷分の庚申塔 – 武蔵野・多摩 MTB散歩」より)]
カメラ西北西方向が屋敷分浅間神社で、参道右に屋敷分の庚申塔があり、左に地名 屋敷分案内碑があります。