マーカーは真蔵院です。
真蔵院
[真蔵院の創建年代は不詳ながら、御嶽山世尊寺の塔頭だったといいます。関野新田を開発した勘左衛門の父甚五左衛門(享保16年1731年没、法名真蔵院勇寛義鋭)を開基として、延享2年(1745)当地へ移転、秀典(宝暦12年1762年寂)が開山したといいます。
●「小金井市史」による真蔵院の縁起
真蔵院
(所在地)関野町2の403。新義真言宗豊山派、木像聖観世音を本尊とする。西多摩郡御岳山中の廃寺世尊寺の塔頭であったものを延享2年(1745)にこの地に創建したと伝えられる。関野新田の開拓者関勘左衛門の父甚五左衛門を開基とし、その法号をとって寺号としたという。開山は秀典。
山門の前に三界万霊塔、川崎平右衛門の供養碑があり、これらによってこの寺の往時の規模をしのぶことができる。観音堂の柱に安産祈願、感謝の信者が納めた底抜竹柄杓がかけてある。
『新編武蔵風土記稿』に「真蔵院 除地三段歩、村の南の方にあり。慈眼山普門院と号す。新義真言宗にて郡中御岳山世尊寺末。本堂六間に四間。南向。本尊聖観音の木像長一尺二寸。開山を秀典という。宝暦十二年九月二十六日示寂。開基は当村を開発せる勘左衛門という者の父甚五左衛門なり。享保十六年十二月十日歿す。法号を真蔵院勇寛義鋭という。因って彼が法号を以てよベり。当寺は元世尊寺の塔頭なりしが、延享二年六月当村へ移せしという。観音堂は本堂の西南三間に一間半。東向」と記載してある。(「小金井市史」より)
●新編武蔵風土記稿による真蔵院の縁起
(関野新田)真蔵院
除地、三段歩、村の南の方にあり。慈眼山普門寺と号す。新義真言宗にて郡中御嶽山世尊寺末、本堂六間に四間南向、本尊正観音の木像長一尺二寸、開山を秀典と云。宝暦十二年九月二十六日示寂。開基は当村を開発せし勘左衛門といふ者の父甚五左衛門なり。享保十六年十二月十日没す。法号を真蔵院勇寛義鋭と云。因て彼が院号を以てよべり。当寺は元世尊寺の塔中なりしが、延慶二年六月当村へ移せしと云。
観音堂。本堂より西南の隅にあり。三間に一間半東向。
川崎平右衛門墓。門を入て左の方にあり。碑面に雲松院殿忠山道栄居士明和四年六月六日をえりてあり
平右衛門は此邊の御代官にてよく民をあはれみしゆへ農民等追慕のあまり、所々に石碑を立しその一なりと云。(新編武蔵風土記稿より) (「真蔵院|小金井市関野町にある真言宗豊山派寺院 – 猫の足あと」より)]
カメラ北西方向が川崎平右衛門供養塔です。
川崎定孝
[川崎 定孝(かわさき さだたか、 元禄7年3月15日(1694年4月9日) – 明和4年6月6日(1767年7月1日))は、江戸時代の農政家。宿場の名主を務め、後に抜擢され江戸幕府の旗本となった人物である。通称、平右衛門、辰之助。
大岡越前守忠相は、享保7年(1722年)から関東の農政を掌る関東地方御用掛という職に就いており、配下の野村時右衛門と小林平六に武蔵野新田の開発を命じた。野村と小林は押立村の名主だった定孝に開発を請け負わせたが、のちに2人は不正や納入する年貢の滞納などを理由に罷免される。新田の開発はその後も定孝に任され、完成した後、同地は大岡の配下の役人・上坂政形の支配所となる。
定孝は上坂の下で、武蔵野新田の竹林や栗林の植林などの御用を務めるが、元文3年(1738年)に新田は大凶作に見舞われる。大岡は上坂に御救米や御救金を与えるよう指示を出した後、定孝を役料10人扶持の新田世話役に任命し、彼の下役2人にも、それぞれ金10両2人扶持を与える。定孝は復興のため「飲水堀用水」と「出百姓立帰料(でひゃくしょうたちかえりりょう)」の費用として、1ヵ年250両の6ヵ年支給を大岡を通して幕府に申請し、認められる。農業精励の度合いに応じて褒美を与える奨励金制度を設けたほか、江戸からの肥料の仕入れをまとめて行うことで費用を安くし、収穫した大麦や小麦などをその年の相場の1、2割増しで買い上げ、各村に備荒用に貯蔵させるなど様々な施策を行った。また、困窮した民を救済するための「御救普請」も実施し、その際に人足役を仁・義・礼・智・信の5段階に分けて扶持米を支給している。
定孝は翌元文4年(1739年)8月8日に「南北武蔵野新田世話役」に任命され、上司である上坂の指図を受けること、手代格で20人扶持を給されること、書記など下役2名を召し抱えること、下役の者たちに6両2人扶持ずつを下されること、扶持・筆墨紙などの入用が与えられることが申し渡される。定孝は各村の村役人を案内人とし、下役2人とともに百姓家を1軒ごとに、その暮しの様子を細かく調査・記録して実態把握と指導につとめた。上坂は、1500両の新田開発料を、年1割の利息で農民に金を貸付け、その利金を新田開発にあてる公金貸付政策に運用したが、定孝はそこに4060両の資金を追加して新田経営の安定化を図る。
在地に密着した働きぶりが認められ、大岡の上申により、定孝は翌5年(1740年)4月に上坂の下から離れ独自に裁量する権限を与えられる。定孝の仕事ぶりは将軍・徳川吉宗の耳にも達しており、寛保2年(1742年)8月に関東一帯が大洪水に見舞われた際、吉宗は定孝を指名し、被害状況の実地見分と救済対策の立案を命じている。この時の洪水の影響で玉川上水の濁りがひどくなったため、同年9月22日に泥の除去作業を行うことが決まり、まず上坂が同地の見分を行った。上坂が普請費用を9000両と見積ったのに対し、勘定方役人の井沢弥惣兵衛正房は6000両でできると見積もったが、定孝は普請工事をさらに低い4000両で仕上げながら、外見は1万両に匹敵する出来ばえだったということで、大岡が定孝への褒美を要求したという記録が残されている。なお、元文年間には、大岡に命じられ、玉川上水沿いの小金井に桜の植樹も行っている。
寛保3年(1743年)7月、上坂政形が勘定奉行配下に異動し支配地が下総国内に代わったのに伴い、支配勘定格となった定孝は上坂が担当していた3万石の地の支配を任される。延享2年(1745年)、大岡が地方御用掛を辞任した際、最後まで大岡配下の役人として残った蓑正高と定孝は勘定奉行支配へと移管された。その4年後の寛延2年(1749年)6月、蓑とともに武蔵野新田の支配から退き、以後、武蔵野新田の統治は関東郡代伊奈氏によって行われる。 (wikipedia・川崎定孝より)]