平和への祈り碑

スポンサーリンク

マーカーは平和への祈り碑です。

平和への祈り碑
[平和祈念碑
この地には 一九四三年(昭和十八年) 帝都(首都)防衛のため成増陸軍飛行場がつくられ 多くの若い生命が空に散っていった。
地元住民にとっても 農地を強制買収され 基地づくりに動員された忘れがたい地である。
 終戦直後の一時期 この広大な地域は米軍キャンプとして接収され 米国第十八代大統領グラント将軍にちなみグラントハイツと呼ばれた。
その後 多年にわたる返還運動が実り みどりと太陽の武蔵野台地にコミュニティ「光が丘」が誕生した。
 練馬区は一九八三年(昭和五十八年)に『非核都市練馬区宣言』を制定し 「世界の恒久平和は人類共通の願い」であるとして「核兵器の廃絶と軍縮」を強く訴えている。
 本年は戦争終結から50年 歴史の大きな節目の年にあたる。この時にあたり戦中 戦後の歴史の激しい流れを見つめてきたこの地に 区民の総意を込めて平和の祈念碑を建て 練馬地域の多数の戦没者を悼むとともに 空爆による被災者や第二次世界大戦による内外諸国民の多大な犠牲を省りみるものである。
 ここに練馬区民は 戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み 平和を守る決意を新たにしたい。
    一九九五年(平成七年)八月十五日
                   練 馬 区]

成増飛行場
[1942年(昭和17年)4月18日のドーリットル空襲を期に、帝都防空目的の飛行場建設が具体化され、飛行場建設が急遽決まった。
1943年(昭和18年)春 – 当地区の関連地主約500人が、板橋区役所に呼び出され、飛行場建設に協力するよう陸軍航空本部から要請がある。
1943年(昭和18年)6月24日 – 飛行用予定地の地権者が、印鑑持参で再び区役所に呼ばれ、買収契約が強制調印され、居住する約60戸に対し、8月末までに立ち退くよう申し渡される。土地は時価より高額で買い取られたが、農作物の補償はなく、移転費用は現物支給である上に、移転期日に間に合わず、移転者は困惑した。
1943年(昭和18年)の建設工事には、陸軍近衛師団と陸軍第一師団で編成した赤羽工兵隊(約700人)、近隣在郷軍人で編成した荒川作業隊(約700人)、近隣青年団で編成した武蔵野防諜突撃隊(約170人)、他に、豊多摩刑務所の囚人、朝鮮からの出稼ぎ労働者、産業報国隊、学徒など総勢約2,000人が動員された。
最盛期の土工事では、昼夜交替制で、一日延3,000人が就労する突貫工事であった。
完成後は、日本陸軍の飛行第47戦隊、第43飛行場大隊、航空廠立川分廠成増分遣整備隊が置かれた。
終戦間際には、南方作戦戦隊の戦力回復の場となり、特攻第48振武隊、特攻第231振武隊が置かれてその訓練地になり、他にも飛行第101戦隊、飛行第102戦隊、飛行第103戦隊が移駐した。
終戦後はアメリカ軍の家族住宅「グラントハイツ」となった後、現在の光が丘およびその周辺となる。  (wikipedia・成増飛行場より)]

[1.光が丘今昔物語
昭和17(1942)年夏、今の「光が丘」の地に成増飛行場が建設されることになった。田柄・土支田・高松の人々は、先祖伝来の水田や、麦・大根・甘薯などの畑を手放すことになったのである。
 戦争が激しくなると、ここから飛び立っていった特攻隊の若い人たちの尊い命が大空に散った。
 それから三度目の夏が巡ってきて、戦争は終わった。
 若い命をささげた人や、先祖伝来の田畑を投げ打った人たちに、報いるものは何もなかった。
 昭和22(1947)年、板橋区から独立して練馬区が誕生するとまもなく、飛行場跡とその周辺は占領軍に接収され、軍人家族の宿舎が建設されることになったのである。
 そして、その地は米国の第18代大統領グラント将軍の名に因んで「グラントハイツ」と命名された。
 この広大な敷地をもつグラントハイツには、飛行場当時燃料や弾薬などを運び込むための鉄道が、東武東上線上板橋駅から引込み線としてあったが、グラントハイツの建設を指揮した司令官ケーシー少将の名をとって、ケーシー線と呼ばれ建設資材の搬送に使われ、その後は、宿舎に居住する米軍家族の生活物資の輸送に使われていた。
 こうして戦争の爪痕は形を変えて、のどかな農村練馬の中に忽然として、「シティ・オブ・アメリカ」が現れたのである。
 昭和30(1955)年後半になると宿舎に居住する米国軍の人たちも帰国や移転をして、ハイツ内は空洞化してきた。
 このころから練馬区では、返還運動が活発になり、昭和48(1973)年 グラントハイツは念願の全面返還となった。
こうして戦時中、成増陸軍飛行場をあとにした「つわものどもの夢のあと」は、幾多の変遷を経て、新しいまち「光が丘」となり、3万人もの人々が暮らす街として発展し、広大な公園も造成された。
2.成増陸軍飛行場
 成増陸軍飛行場は、もとの練馬高松町、練馬田柄町、練馬土支田町にまたがる農村地域で、約80世帯の人々が住んでいた。昭和17(1942)年に測量が始まり、翌年の昭和18(1943)年春に住民の立ち退きがあり、その夏8月に工事に着手し、4か月後の12月には使用を開始していた。
 また飛行場の周辺には戦闘機を格納する掩体壕や高射砲陣地などが造られた。
3.平和への祈り
 練馬区では、戦争の悲惨さと平和の尊さを心に刻み、昭和58(1983)年、世界の恒久平和と、核兵器の廃絶を願って「非核都市宣言」を行った。
 平成7(1995)年、戦後50年を迎え、戦争の恐ろしさや悲惨さ、その愚かさを忘れることなく後世に語り継ぎ、未来の平和への礎になることを願って、戦争中に成増飛行場があった光が丘に「平和祈念碑」を建立した。  (「総務省|一般戦災死没者の追悼|練馬区における戦災の状況(東京都)」より)]

平和への祈り – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向に平和への祈り碑があります。

スポンサーリンク