平野屋酒店跡

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    東京府15区8郡時代の町村区分図豊多摩郡杉並町・番地入最新杉並町全図(昭和6年)」(地図左上・緑の実線が千川用水分水の桃園川で、青梅街道口・地番「字四面道154」に平野屋酒店があった。)

    平野屋酒店
    [昭和二年の五月から十月にかけて、私は井荻村のこの場所にこの家ができるまで(井伏鱒二旧宅)、四面道から駅よりの千川用水追分に近い平野屋酒店の二階に下宿した。(今、公正堂の所在する場所である)千川用水追分は田用水追分とも言い、水路が半兵衛堀と相沢堀に分かれている分岐点である。現在、この水路は全長何キロかの暗渠でつながっている。
    二階の東側の窓を開けると一面の麦畑で、斜め右手に十字架を立てた教会の屋根が見え、その左に荻窪の三本松というアカマツの大木を取り囲むクヌギ林が見えた。西側の窓からは街道沿いに商店と空地が半々くらいの割で飛び飛びに並んでいるのが見えた。正面東寄りに武蔵野湯という銭湯があって、(現在、このお湯屋は大きなビルに改築されるそうで取毀しが始まっている)その左が自転車屋、次が空地、その次が平野屋と同業の亀田屋という清酒小売店。(現在、亀田屋は近代的ビルに改築されて、大東不動産の看板を掛けている)その左は、大正末年の区画整理で出来た新しい横丁。そこの角店が内田屋で、そこから六、七軒目に池田屋という靴店があった。横丁の奥は、右手がクヌギ山・左手が原っぱ。
     すでに五十年以上も前のことである。確かな記憶がなくなったので、当時、この辺に住んでいた鳶の木下の記憶を借りる。
     即ち、武蔵野湯の右手は、中込という電気やで、(現在、改築して以前からの営業をつづけている ※移転)その右手が床屋、それから時計屋、空地、空地、区画整理の横丁。そこの角店が長田屋という乾物屋。(これは昭和三、四年ごろに開店した)次が、近眼の鳶春という鳶職の家。(後に、畳屋の店になって、今は茣蓙やスリッパを売っている)次が空地、田中医院、空地、空地。次が「大高原っぱ」という広い空き地になっていた。
     「大高原っぱ」は、今の環状八号線の方まで大きく続き、新宿角筈の大高石材店の所有地であった。荻窪大高石材店の番頭がその管理にあたり、戦争中この辺がすっかり街並になってしまってもここだけは空地のままであった。(現在、この空地に杉並公会堂と、新星堂レコード店(※2013年(平成25年)8月に茨城県つくば市に本社を移転、本社跡地には伊藤忠都市開発によるマンションが建設)の近代的ビルが出来ている。新星堂の塔のように高い階上から見ると、冬は富士、大山、秩父群山、御嶽など、江戸時代の荻窪人が講中になっていた山々が一望できる。田中医院は公会堂が出来るのに絶対反対していたが、杉並区役所の吏員たちに拝み倒されて裏の白山神社の方へ引っ越した)  (井伏鱒二著 – 荻窪風土記」抜粋)]

    カメラ北東方向が平野屋酒店跡に建つ公生堂ビルです。