延命寺

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延命寺
[延命寺の開基は長智法印、開山は長恵法印で、関前村開村当時の寛文10年(1670)とされる。
開村にあたり、関前村開発名主の協力を得て、本堂庫裏大師堂神仏習合のもと鎮守八幡神社が造立された。八幡山の山号により関前村のこの地域の小字は八幡附と付けられ、これが昭和37年(1962)町名整理の際に武蔵野市八幡町の町名の由来となった。明治維新神仏分離令により、延命寺と関前八幡神社に分離されている。長恵時代の遺宝「護摩炉(市有形文化財)」や恵心作と伝えられる秘仏薬師如来などを祀り長恵時代の遺宝が数多く残っている。入口には阿形(あぎょう)、吽形(うんぎょう)の二体の金剛力士像が睨み、境内には毘沙門天寿老人の石造や平和観音像などが祀られている。  (「延命寺<寿老人・毘沙門天> – 武蔵野市観光機構(むー観) 武蔵野市 …」より)]

[関前の「延命寺」にあった「武蔵野村役場」
1889(明治22)年4月1日に吉祥寺西窪関前の4村と井口新田の飛び地が合併し、武蔵野村が誕生した。「武蔵野村役場」は吉祥寺、西窪、境、関前の連合戸長役場があった関前の「延命寺」に置かれた。村議会は本堂で開かれていたという。  (「5: 写真でひもとく「吉祥寺」写真館 ~ 吉祥寺 | このまちアーカイブス .」より)]

[平和観音菩薩像
碑文
平和観音讃仰和讃
あらしはすぎて
うるわしく
平和の空はかゞやけど
よびかえす すべもなし
あゝたゝかいに
いたましく
逝けるみたまよ
さまよう みたまよ
われらはたのむ 観音の
やさしの救い
大慈悲を
いのりつゝ なぐさめん
あゝくにの ため
はかなくも
ゆける みたまを
つみなき みたまを
こゝろの平和
あらずして
地上にへいわ
あるべきや
いざ頼れ ひとすじに
この観音のみ姿ゆ
生るゝ平和を
久遠の平和を

平和観音菩薩
 太平洋戦争が終って三十三年、今や我国は経済大国として平和な日々が続いているが、私達は陸海空に護国の華と散った英霊、戦火に命を失った戦災殉難者のいしずえを絶対に忘れることは出来ません そして痛ましい戦争の悲惨と恐怖と罪悪を常に想起して、平和に対する努力を怠ってはなりません
 想えば武蔵野市(株)中島飛行機武蔵製作所及びその下請工場が数多く在ったため、昭和十九年十一月廿四日、B29による最初の大空襲を受け、尓来翌年八月十五日の終戦まで十数回の爆撃により工場と付近の民家は廃墟と化し、防空壕もろとも一家全滅が続出、その死傷者千数百を数えた 当山も至近弾による甚大な被害を蒙った 今やその工場跡も平和な緑の公園に生れ変り戦争の足跡は消えた
 茲に終戦三十三年忌を迎え、平和を愛する人々の誠願により観音菩薩像を建立して平和観音と名付け、二度とこの悲劇を繰り返さないために、その由来を記述して後世に伝え、有縁の戦没者英霊と戦災殉難者の名を刻んで冥福を祈り奉る
 本日を卜して終戦三十三年戦没英霊、戦災殉難者の慰霊と平和観音開眼大法要を嚴修し并せて世界平和を祈念するものである
  昭和五十二年十月二十三日
 延命寺中興第五世住職少僧正中里崇亮  (「総務省|一般戦災死没者の追悼|平和観音菩薩像」より)]

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延命寺斎場 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が延命寺参道です。

薬師講縁日の延命寺本堂前のカメラです。本堂右入口前に平和観音菩薩像があります。