御台橋跡

マーカーは御台橋跡です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「覺東」左下に五代橋と描かれています。)

御台橋
[野川 – 現在は国分寺崖線沿いに流れているが、以前は市北部を縦断した後、世田谷通りに沿って流れていた。1960年代に、水害対策で旧・入間川とともに現在のルートに改修された。旧流路の縦断部分は野川緑地公園となった。  (wikipedia・狛江市より)]

[御台橋跡
ここに野川に架かる御台橋がありました。
 地元で大川と呼んでいた旧野川は、現在、野川緑地公園となっていますが、この御台橋辺りは戦前、子どもたちの格好の遊び場でした。また、日照りの時には雨乞いが行われたこともありました。
 御台橋の名は江戸時代の初めころから見られ、江戸時代から近年まで「五大橋」、「五代橋」と書かれていましたが、この親柱が造られた昭和36年に「御台橋」と改められたようです。
平成20年2月 狛江市  (「商栄会概要 – 御台橋商栄会 日本一ちっちゃいゆるキャラがいる商店街」より)]

[「六郷用水に落ちて来る少し上手でも、両岸にはまだ萱原笹原が残り、川楊の根株を洗って居るやうな処もあつて、いかにも野川の名がふさはしく感じられる。」(柳田國男「水曜手帖」)。野川は、狛江の北部を縦貫して六郷用水に合流する豊かな水脈であった。
 土地の人は大川と呼んだ。子どもたちの格好の遊び場であった。水遊びをしたり、魚釣りをした。フナ、ハヤなどがたくさん釣れた。ドジョウやシジミ捕りにはざるやふるいを持って出かけた。シジミをたくさん捕って住宅に売りにいった子どももいた。カタッケ(カタハガイ?)という天保銭のような形の貝もときどき捕れた。堰(せき)の下では水車がのどかにまわっていた。
 秋になると大人たちは堰の水を落として魚をすくった。ウナギ、コイ、フナ、ナマズ、ハヤからスッポンまで大量の収穫があった。
 昭和の初め頃、大工の鈴木正平さん宅の近くに、小笠原長生(海軍中将)の別荘が建てられた。この家には令息の章二郎さんが住んだ。若殿様が似合う映画俳優だった。小笠原は船大工に三間ほどの川船を造らせ、野川に浮かべた。正平さんのお父さんを誘ってはゴダイ橋と堰の間を往復し、もりで大きなコイをねらったりして、船遊びを楽しんだ。この船は大水の出たある日、つなぎ止めた綱が切れ、忽然と姿を消した。
 日照りの日が続くと、村の人たちは大山に雨乞いの水をもらいにいった。ゴダイ橋のところに梵天を立てて神主さんを迎え、「サンゲサンゲロッコンショウジョウ」と称えながら竹筒の水を野川に注(そそ)いだ。
 かつて野川にかかり、今はバス停に名をとどめる御台(ごだい)橋は、昔は五大橋、五代橋と書かれた。「御台」の字が当てられたのは昭和36年からである。中世、この辺りは有力寺院の寺領で、五大明王を安置する五大堂があったのではないかという説がある。また、湿地・泥地をゴダ・コダ・ゴダイなどと呼んだ語源に発した地名ということも考えられる。  (「野川の流れ – 狛江市役所」より)]

御台橋かいわい – 狛江市役所

カメラ北北東方向に御台橋がありました。

カメラ南南西方向・公園フェンス前に橋の親柱がモニュメントとして残されています。