徳蔵寺

マーカーは徳蔵寺です。

徳蔵寺
[臨済宗大徳寺派の徳蔵寺は、福寿山と号します。創建年代は不詳ですが、鎌倉時代の草創とも室町時代の草創ともいい、新編武蔵風土記稿では、壁英禅師(寛永12年1635年)を創建と記しています。江戸時代中期に永春庵を八国山より境内へ移し、明治時代に入り正位寺を合併しています。永春庵で所蔵していた板碑は、元弘の板碑と言われ国重要重要文化財に指定され、板碑保存館に保管されている他、数多くの板碑をかつて本堂に所蔵していたことから、ちらかし寺とも呼ばれました。武蔵野三十三観音霊場7番、狭山三十三観音霊場の11番、12番(永春庵)です。
●元弘三年斉藤盛貞等戦死供養碑
元弘3年(1333)5月8日、新田義貞は上州(群馬県生品明神において倒幕の兵を挙げ、22日鎌倉を攻略した。鎌倉街道に沿って進み、5月12日久米川に布陣し、15日府中分倍河原、18日相州(神奈川県)村岡の合戦など、多くの戦いが繰り広げられた。この元弘の碑の銘文により小島法師が著したといわれる「太平記」の15日-18日の戦いが裏付けされ、戦史を実証している。銘文によってわかるように新田軍の将士、飽間斎藤氏三人の討死が刻まれている。中世、戦場には陣僧が加わり、戦死者の回向、時には軍使の役目もした。陣僧は、時衆(時宗の僧)が多かったようで、戦死者の菩提を弔うため、仏事供養を託された。この碑は、時宗の僧「玖阿弥陀仏」が勧進をし、「遍阿弥陀仏」が銘文を書いている。「玖阿弥陀仏」は鎌倉街道に面した久米(所沢市)の長久寺開山したといわれる「玖阿」と同名である。
この碑は、もと狭山丘陵東端の八国山中腹の永春庵にあったが江戸末期には永春庵とともに徳蔵寺に移された。材質は、緑泥片岩。高さ147cm。幅44cm。種子は不明、梵字光明真言が刻まれている。
この碑がある福寿山徳蔵寺は、江戸時代の元和2年(1616)に壁英禅師が開山した。臨済宗大徳寺派江戸赤坂種徳寺の末寺で本尊白衣観立。寺伝によると鎌倉期飽間斎藤氏が白衣観音を安置して寺が興ったといわれている。朝木義栴和尚(1892-1952)が考古資料、板碑など収集した。これが堂字に雑然と並んでいたことから「ちらかし寺」の異名があった。これらの収集品は、現在徳蔵寺板碑保存館に展示されている。また、徳蔵寺は、狭山観音霊場の第11番で、境内にある永春庵(本尊正観音)は12番となっている。(東村山文化財案内より)
●比翼碑
比翼碑は双式板碑、または連碑などとよばれ、対になっている板碑で二基一対や、一石で二基、三基彩ったものもある。この比翼碑は二基一組で延文4年(1359)に造られた。主尊は蓮座に乗った阿弥陀三尊で、「光明遍照一口以ゐ、ロひ満ん、逆修、十万世界、念仏衆生、摂取不拾」のがあり男女二人(おそらく夫婦)の逆修(生前に供養しておくこと)供養碑で、ともに高さ97cm、幅28cm。この碑は久米川町四丁目白山神社付近の墓地にあったものである。(東村山市教育委員会掲示より)  (「徳蔵寺|東村山市諏訪町にある臨済宗大徳寺派寺院、ちらかし寺」より)]

徳蔵寺ホームページ」 – 「板碑保存館

「板碑〈元弘三年斎藤盛貞等戦死供養碑〉 | 北多摩散策コース | 東京都文化財」

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図 」・「将軍塚徳蔵寺」(13-49)、「飽間斎藤氏戦死墓碑説明・右ページ2行目から左ページ右」(13-48)
将軍塚徳蔵寺(拡大図)

[図会右ページ下に徳蔵寺、左ページ上に将軍塚(久米川古戦場跡)が描かれています。]

徳蔵寺 – Google Map 画像リンク」、「徳蔵寺板碑保存館 – Google Map 画像リンク

カメラ北北西方向が徳蔵寺山門です。

徳蔵寺のストリートビューです。

徳蔵寺板碑保存館前のストリートビューです。

徳蔵寺板碑保存館内のストリートビューです。