マーカーは慈宏寺です。
慈宏寺
[慈宏寺は山号を井口山といいます。 これは、江戸幕府四代将軍・徳川家綱代の寛文13年(1673)、当寺のある大宮前新田を含む札野新田開発を行った関村(現・練馬区)名主・井口八郎右衛門信忠の嗣子(しし)であり、大宮前新田名主・井口杢右衛門義重が一宇を創し、妙福寺(現・練馬区)19世慈宏院日賢上人を招じて慈宏寺を開山したことに由来します。
元禄4年(1691)、五代将軍・徳川綱吉のとき、江戸幕府は法華経の信者以外に“施しをせず、また施しを受けぬ”という“不受不施(ふじゅふせ)”の信条を守りつづけた碑文谷法華寺と谷中感応寺を天台宗に改宗させました。そのおり、法華寺に安置されていた日朗上人作の「荒布の祖師(あらめのそし)」をはじめ、釈迦如来、多宝如来の両尊像を当山に移し安置しました。
庶民を震撼させた八代将軍吉宗の「享保(きょうほ)の大改革」や度重なる飢饉や凶作に、慈宏寺と大宮前新田村にも危機が訪れましたが、慈宏寺は歴代上人の粉骨砕身の尽力と檀信徒や村民の厚い外護によって当山は護持されて参りました。しかし、慶応4年(1868)に江戸幕府が崩壊すると、明治新政府による神仏分離令が公布され、廃仏稀釈(はいぶつきしゃく)運動がおこりました。この運動によって日本中の多くの寺院、仏像が破壊され、廃寺や無住となる寺院が続出しました。慈宏寺は当山の開山とほぼ同時期に開創したと思われ別当(べっとう)を兼帯していた春日社(春日神社)の別当職を解かれます。
さらに、廃仏毀釈の荒廃を乗り超え見事に立ち直ったのもつかの間、明治11年(1878)3月17日深夜、類焼により諸堂宇すべて灰燼に帰してしまいました。
全ての伽藍、開山以来の旧記等はすべて焼失してしまいましたが、幸いなことに荒布の祖師(あらめのそし)像をはじめ諸尊像は火中より檀家の方が救出され難を逃れました。その後、松庵村にあった廃寺・円光寺本堂を移築し本堂とし再興を目指します。昭和6年(1931)、38世久遠院日遣上人が入山、墓地整備増設がなされ、写経堂、久遠塔、立正安国碑など次々と寺容整い、昭和48年(1973)には現在の本堂・庫裡が落慶し当山は中興しました。 (「慈宏寺のご案内 – 慈宏寺縁起」より)]
木造日蓮上人立像(もくぞうにちれんしょうにんりゅうぞう)
[慈宏寺の本尊で「荒布の祖師」として親しまれている本像は、像高62㎝、肩巾15㎝の寄木造りの像で、玉眼を嵌入しています。像容は右手で杖をつき、左手を胸前に曲げ、数珠を持ち直立した日蓮上人の像で、木造の着衣姿を彫出し、彩色がほどこされています。眼もとはやさしく、鼻筋がとおり、閉じた口元の間に朱が少し残っています。頬や顎のあたりに張りがあり、耳朶の大きな耳の形が美しく、穏やかで力強い面貌の表現は、宗祖にふさわしい高邁な精神を備えた上人の人間像を見事に表しています。
本像において注目すべきは身にまとう袈裟の表現で、金泥・緑青・朱など極彩色で唐草文や花文をあしらい、しかも華美に流れず、むしろ上人像の荘厳を一層たかめる効果をもたらしています。坐像が多い日蓮の木像の中で、本像は伝統的な形式を破り、立像としての効果を活かし、気品にあふれた生彩に富む像で、肖像彫刻としても秀逸です。おそらく彫刻・彩色ともに洗練された感覚をそなえた腕のある専門の仏師の作と推測され、制作年代については、本寺開創の17世紀後半頃と考えられます。
なお「荒布の祖師」のいわれは、弘長元(1261)年、上人が「立正安国論」を出して鎌倉幕府の忌諱(きき)に触れ伊豆に流刑されるとき、随行を許されなかった弟子の日朗が荒布の巻きついた流木に師を偲んで彫ったという伝説によります。 (「杉並区教育委員会 – 平成15年度 指定登録文化財」より)]
「指定文化財 有形文化財 – 大宮前「當村開起慈宏寺大檀那」供養塔の詳細」
[明治八(1875)年に、中野村の宝仙寺を仮校舎として第六小学区第九番公立桃園学校(現中野区立桃園第一小学校の前身)が開校した。しかし、杉並区域からは遠すぎるので、桃園学校一番分校が馬橋村の清見寺(通学範囲は馬橋・高円寺・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗村)、二番分校が上井草村の薬王院薬師堂(上井草・下井草・上荻窪・下荻窪村)に設置された。このとき杉並区域では、ほかに郊西学校(五日市街道沿いの地区 ※大宮前新田、慈宏寺内)と高泉学校(甲州街道沿いの地区 ※上高井戸村、医王寺内)が開校している。そして翌九(1876)年に、桃園学校一番分校は第三中学区第二十五番公立桃野小学校、二番分校は第二十六番公立桃井学校として、それぞれ独立した。現在の杉並第一小学校、桃井第一小学校の前身である。 (「天沼8町会 – 明治時代」より)]
杉並区立高井戸小学校
[1875年10月8日 – 高泉学校(上高井戸村、医王寺内)・郊西学校(大宮前新田、慈宏寺内)として認可。
1891年6月19日 – 高泉学校と郊西学校が合併し、東京府東多摩郡高井戸尋常小学校として新たに発足。 (wikipedia・杉並区立高井戸小学校より)]
カメラ北北東方向が慈宏寺参道です。