マーカーは成宗城址(共立女子大学研修センター杉並寮)です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
成宗城址
[鎌倉時代の砦跡。現在の共立女子大学研修センター杉並寮の敷地内にある。 (wikipedia・成田西より)]
成田西
[成田西は「成宗田端西」の意。成宗は開発者野口成宗にちなむ。矢倉山(成田西4丁目)は野口氏の館跡で、のちに太田道灌が見張りの矢倉(望楼)を建てたことからその名がついたという。田端村は善福寺川沿いに開けた村で、ここに土着した武士品川左京良影が菅原道真を信仰して天神社を創建、その社殿が田の端にあり「田端天神」と呼んだのが村名の由来だ。成田は合成名で成田不動も成田という田んぼも関係ない。 (「【ナリタニシ】成田西の由来 1丁目~2丁目 – すむいえ情報館」より)]
矢倉山(成田西4丁目)
成宗
[区の中央部で、1~3丁目と分かれていたが、住居表示の実施によって、成田西1~4丁目、成田東1~4、5丁目の各一部とからなり、成宗の町名はなくなった。地名の由来ははっきりしないが、古来からの地名といわれ、土地の旧家野口家の先祖に成宗と称する人がいたと伝っているが、確証はない。又村内の小字、矢倉の地は太田道灌の出城があったといわれ、又ここを開いた大橋氏の柵跡ともいわれ、大橋氏の名が成宗で、村名として唱えられたともいわれている。
江戸時代、成宗村・田端村は天領で代官伊奈半左衛門の支配に入っているが、以前は岡部氏の知行所であり、成田東の天桂寺には岡部氏累代の墓がある。
北部には青梅街道があり、中央には砂川、五日市へ通ずる今の五日市街道(砂川道又は長新田ともいわれる)が北東から南西に通じ小金井の桜を観る江戸の人々の通り道となっている。又往昔は矢倉台(今の田端神社の前)の北には鎌倉街道が通っていたといわれ、鎌倉時代から陣屋櫓のあった地ということもうなづかれる。 (「杉並の地名 文化財シリーズ19から – すぎなみ学倶楽部」より)]
カメラ東方向が成宗城址とされる土地に建つ共立女子大学研修センター杉並寮です。