教会通り

    今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

    東京府15区8郡時代の町村区分図豊多摩郡杉並町・番地入最新杉並町全図(昭和6年)」[地図左上・おぎくぼ駅上方向、中谷戸と四面道の字界(赤破線)が描かれ、途中六ケ村分水の流れ(桃園川)と交差しています。中谷戸、四面道、小戸谷の字界付近に弁天沼が描かれています。教会通りと六ケ村分水が交差する右に地番「中谷戸123」がある。地番「中谷戸88」の煙突記号が寿湯(開業大正11年[1922年]、廃業昭和47年[1972年])で、青梅街道の拡幅予定ラインが緑破線で印されています。また地番「中谷戸61」の煙突は現在も営業している藤乃湯(大正15年[1926年]開業)です。]

    [大正三(1914)年に東京駅が完成して、すでに東京-中野間を走っていた中央線の電車は、同八(1919)から複線になって運転区間が吉祥寺まで延長され、荻窪駅も電車停車駅になった。
    大正十一(1922)年七月、中央線に高円寺阿佐ヶ谷西荻窪の三駅が開設されて、十一月には電化区間が国分寺まで延長した、いまや中央沿線に住まいを求める人々がどんどん増えていた。
     天沼でも、荻窪駅を中心に移入人口が目に見えて増加していることは、杉並最初の銭湯である「寿湯」が、この年に青梅街道(現在の荻窪勧業ビルのところ)で営業していることでもうかがえる。  (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 大正時代」より)
    タウンセブンの正面を青梅街道からセブンスディ・アドベンチスト天沼教会へとつづく役五百メートルの賑やかな通りが教会通りであるが、その西に並行している”八幡通り”とともに、天沼から荻窪駅に通じる重要な生活道路になっている。天沼周辺から駅に通じる南北の道が他にないからである。寿通りは杉並区で最初の銭湯(お風呂屋さん)寿湯が通りの入り口のカドにあったので付けられた名称で、八幡通りのバイパスとしてあり、小さいがまとまった商店街を形成している。
    教会通りの名前は、文字通りセブンスディ・アドベンチスト天沼教会があったからである。大正三年、同教団が天沼の中谷戸(天沼三丁目)に土地一ヘクタールを買い求め、からたちの垣根で囲み、三角屋根のレンガ造りの教会と赤い屋根の二階建てのしょうしゃな西洋館を四棟を建て、多数の外国人宣教師が行き来するようになると、ここは異国情緒がただよった。夜になると煌々と電灯の光が窓に輝き、薄暗いランプで光で暮らしていた農家の人々には、一大不夜城に見えたという。大正八年四月、併設のミッションスクール天沼女学院(現三育学院大学東京校舎)が開設した。区内最初の女学校で、駅をつかってかよう良家の子女で、通りは華やかな賑わいを見せた。
     また、「医療伝道は、福音の右腕」という教えのもとに、教団が、アメリカからゲツラフ院長を迎えて教会敷地内に教団の医療施設を開いたのは、昭和四年年四月であった。以来、信者をもとより、近隣からも多数の人が通院した。当時、近くに医療施設がなかったこともあるが、清潔な病院に献身的な治療が評判を呼んだからである。そして、今日まで地元の身近な病院であり、全国にその名を知られる東京衛生病院に発展したのだった。
     太平洋戦争がはじまると外国人教師と医師たちは国に引き揚げ、昭和十八年九月、後を守っていた日本人教師たちが治安維持法違反で検挙されると。教会、女学院は閉鎖され、土地建物は東京新聞社に強制売却された。そんなことで、戦後しばらくして教団に返還されたが、一時期、ここで東京新聞の印刷がされたこともあった。
     戦後、青梅街道から通りに入ったすぐのところに、しゃれた「赤い屋根」という喫茶店ができた。まず喫茶店が珍しい頃で、教会通りを、より一層ロマンチックなイメージにした。
     教会通りは、以前、少なくとも終戦までは、一般的には”弁天通り”と言われていた。通りの奥には、池の中之島に弁天様が祀られている天沼弁天池があったことから、そう呼ばれていた。
     この通りの昔は、道幅の狭い農道で、俗にいう九尺道路だった。昭和十九年、戦争が激しく空襲も頻繁になると建物の延焼防止ということで建物強制疎開が命令された。弁天通りの取り壊しは、道の西側の家並みが対象となった。教会通りは、疎開で家がなくなって道は広がった。しかし、戦争も終わり、元の地主に返還されると新しく建物がたち、以前の狭い通りに戻ってしまった。
     弁天池は、「天沼」地名の発祥の地とも言われて、美しい沼だった。しかし、年々水が枯れ、弁天様が天沼八幡神社合祀されると、まわりの人々から「弁天通りでもあるまい」という話がもちあがった。
     当時、荻窪駅北口には、大きな商店街として、新興マーケット、銀座街、北口大通りの三商店街があって共通売り出しをしていた。後の荻窪北口商店連合会ができたとき核となった商店会であるが、商店街として整いはじめた教会通りは、この売り出しに参加しようということになった。そして、これをきっかけとして昭和三十年、ごく自然に弁天通りの名から”教会通り”という名を冠した新しい商店会「荻窪教会通り新栄会」が発足したのだった。

         (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – わが街、荻窪」より)]

    [詩人の神戸雄一は昭和六年の春から八年の暮れまで弁天通りに住んでいた。場所は、弁天通りから脇道の「蔦の湯」という銭湯に行く曲がり角のところである。筋向うの家が大きな牛乳屋で、その左手に漬物屋の岡田という大家さんの長い塀囲いがあった。神戸君のところの地主は、地代や家賃のことは問題にしなかった。遊び半分に借家を建てていたようだ。
     神戸君夫婦は一人娘の可愛らしい子供を連れ、昭和八年の暮に阿佐ヶ谷に引っ越していった。
     神戸君がいた弁天通りの家は、今では近代風の建物に改築され一二三(ひふみ)屋という華やかな感じの化粧品店になっている。一二三やの横にはマンションが建ち、元の場所に残っているのは露地の奥の「蔦の湯」である。一二三屋の西隣には吉村医院のブロック塀が続き、筋向こうに店は携帯用の食物やサンドイッチなど売っている大沢という弁当屋で、その隣が、洋品店、その次がドリアンという喫茶店・・・。戦前の頃と違って店屋がびっしり並んでいる。
     神戸君の一家が阿佐ヶ谷に引っ越していったのは昭和十八年の十二月だが、そのちょっと前の三月か四月頃、太宰治がこの弁天通りに引っ越して来た。その時は伊馬鵜平もこの横丁に引っ越して、ムーランルージュの座付作者として人気を煽る芝居の台本を次から次に書いていた。
    昭和九年、画期的な大入り満員を取った芝居「桐の木横丁」も、ピノチオ常連たちと総見した。長谷川如是閑が絶賛したのはこの作品である。現在の天沼三丁目二番地(Google Maps)、三番地(Google Maps)あたり、伊馬君のうちや太宰君たちのうちには、家主が一軒に一株ずつ桐の木の苗を植えるのが作法だとされていた。私は伊馬君のうちでも太宰君のうちでも桐の苗木が植えられているのを見たことはないが、植えても枯らしたのだろう程度に思っていた。ところが「桐の木横丁」という芝居が新宿ムーランで大当たりを取ったので、伊馬君よ太宰君のいる横丁は桐の木横丁と言われるようになった。誰が言い出したのかわからない。
     天沼の桐の木横丁というのは、新宿ムーランルージュで大当たりをとった伊馬鵜平の芝居「桐の木横丁」に因んで出来た名前だが、今ではもうそれが忘れ去られてしまった。現在の教会通り、鮨屋ピカ一の前を東へ枝道に入って、矩の手に右に左に折れ曲り、マーケット従業員の住宅がある辺りから、その先へ行って右手の露地を入った辺り。この区域の総称が桐の木横丁であった。
     現在、ここでは左手の近江屋という塩・酒を商う店も改築され、その先にあった梅の木畑や空閑地は、新規の家ですっかり塞がれている。その先、右手にあった画家津田青楓の二階家と、それと並んだ太宰治のいた東京日日新聞記者飛島定城の二階家のあった辺りには、先に言ったマーケット従業員の住宅が建っている。その先、右手の六尺幅の露地には、一番奥の左手の家に伊馬鵜平の弟妹と伊馬君のお母さんが住み、その向かいの家に伊馬君がいた。太宰治のいた家と僅か百歩あまりの距離である。太宰は酒を飲みに伊馬君をよく外に連れ出そうとしたが、伊馬君はお母さんの言いつけを守って太宰の言うままにならなかった。この平凡な温厚ぶりが太宰にしては人ごとながら照れくさくなって、伊馬君のことを「彼は白扇に書いた忠孝という字のような男だ」と言った。
     伊馬君のいた露地の突き当りには高い板塀があって、塀の向側にはお湯屋と徳川夢声の家があった。これは表通りの青梅街道に小道で通じていた。  (「井伏鱒二著 – 荻窪風土記」抜粋)]

    [詩人の神戸雄一が昭和6年から8年まで住んだという家は、弁天通りのほぼ中央で、現在そこには「HIFUMIYA」(化粧品店)がある。(本編では<一二三屋>)
    井伏が朝湯に行った「蔦の湯」(天沼3-27)は、井伏が逝って2年後くらいに廃業した。
    *平成19年夏、「HIFUMIYA」(化粧品店)は取り壊され、現在(H19.10)は更地になっている。この「一ニ三屋」の名前は、おそらく、所在地の昔の番地が「天沼中谷戸123」だったことに由来すると察するが、こうした店名が消えていくことに一抹の寂しさを感じる。なお、平成22年4月、教会通りにある著名な蜂蜜専門店「ラベイユ」荻窪本店が、その場所からHIFUMIYAの跡地に新築した近代的な瀟洒な建物に移転した。
    昭和56年頃あった<鮨屋ピカ一>(みずほ銀行の奥隣)は、キムチ等韓国の惣菜類を販売する「ソウル食品」に変わり、その後、「荻窪キムチ」に変わった。現在は、韓国料理店(いも豚専門店 韓国料理 味家※西荻窪に移転)になっている。  (「荻窪教会通り(荻窪風土記-天沼の弁天通り)」より)]

    桃園川銭湯巡礼 その1 藤乃湯とやきや: 暗渠さんぽ

    荻窪教会通り商店街ホームページ」 – 「グルメの店舗」、「業種から探す

    カメラ北方向が教会通りです。

    カメラ北北西方向が東京衛生病院です。

    カメラ東北東方向がセブンスディ・アドベンチスト天沼教会です。