マーカーは旧関前村名主(井口家)役宅です。
旧関前村名主(井口家)役宅
[関前村名主を世襲した井口家の役宅で市指定有形文化財。庭内には、享保の新田開発にあたって八代将軍・徳川吉宗から下賜されたといわれている「サンシュユの樹」が残っており、市指定天然記念物となっている。
関前村はかつて武士であった人たちが帰農して開発した新田村落、いわゆる「土豪開発新田」のひとつとして成立しました。
小田原北条氏の家臣であった井口八郎右衛門が、豊島郡関村(現在の練馬区関町)に帰農し、関村の前に広がる札野の開発に乗り出します。寛文8(1668 )年、八郎右衛門は息子ら数名とともに「新田仲間定書」を作成し、年に1度の上納金300両を、百姓たちの間で念入りに分担することをあらかじめ定めました。
その頃江戸幕府は財政の立て直しを、図ろうと、積極的に新田開発を奨励していました。勘定奉行の役人数名を上野国掛野(現在の群馬県南東部)や下野国椿海(現在の千葉県東部)、武蔵野などに派遣し、新田開発に適した土地を探していたのです。 こうした動向をとらえた八郎右衛門らは、翌年、開発許可の出願を行い、幕府の許可を受けます。このとき開発された札野新田は、大宮前(現在の杉並区内)、無礼前、連雀新田前(ともに現在の三鷹市内)、そして関前(現在武蔵野市関前・八幡町)の4地域でした。
田畑の地割りは吉祥寺村・西窪村と同じような短冊型でした。五日市街道を挟んだ土地の両側をそれぞれ長方形に区切り、街道に面して住まいを、その裏(北または南側)に畑を作り、さらにその奥を林にしました。そのうちの1区分に建てられたのが関前八幡神社と延命寺です。
村の名は開発を始めた当初は”関村の前”であることから「関村前」と称されていましたが、元禄元(1688年)に「関前新田」と改称されました。さらにその後、享保の新田開発で新たに開拓された「関前新田」と区別するため、「関前村」と呼ばれるようになったのです。 (「ルーツを探る関前と境 – 武蔵野市」より)]
カメラ北北東方向が旧関前村名主(井口家)役宅入口です。