杉並区役所(杉並区の成立ち)

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[徳川家康関ヶ原の合戦(慶長5[1600]年)で勝利を収めて天下の実権をを掌握し、慶長八(1603)年、征夷大将軍に任命されて江戸幕府を開いた。
 幕府は、旗本領・寺社領以外の江戸府内(昭和七年以前の旧東京市域にほぼ同じ)を町奉行に、郡村部を関東郡代に支配させたので、杉並の区域は関東郡代の支配に属し、武蔵国多摩郡野方領内に含まれた。(※江戸時代に多摩郡と豊島郡の一部にあった多くの幕府直轄領と旗本の知行所とが入り混じった広い範囲を「野方領」と呼んだことから。現在の中野区を含み、板橋方面にまで達する範囲を指した。 wikipedia・野方町#地名の由来)
 江戸時代の杉並区域は、下図の二〇か村に分かれていた。もっとも、まだ杉並というまとまりがあったわけではないから、二〇か村はそれぞれが独自の存在と考えていい。また、村としての成立の事情や時期もおのおの異なり、下図の二〇か村がそろうのは開幕の数十年後、寛文延宝(1661-81)のころである。

 このうち、高円寺村は桃園川下流の低湿地にできたので、もとは小沢村といった。寛永年間(1626-43)三代将軍家光がしばしばこのあたりに鷹狩に来て、小沢村の高円寺で休息したことから寺の名が有名になって、後に小沢村を高円寺村に改めたのである。また、井草村は正保年間(1644-48)上下二村に分かれ、上井草村を遅野井村といったこともある。
 これらの村々のうち、上井草村と下井草村は旗本今川氏(義元の子孫)の知行地、和田村と和泉村・永福寺村の大部分は旗本内田氏の知行地、そのほかは、大宮八幡領(和田村の一部)、妙正寺領(下井草村の一部)、井草八幡宮領(上井草の一部)を除いて、幕府直轄の天領であった。
明治十一(1878)年、東京府は行政区分を区部と郡部とに編成替えした。区部は麹町神田日本橋京橋麻布赤坂四谷牛込小石川本郷下谷浅草本所深川の一五区、郡部は荏原東多摩南豊島北豊島南足立南葛飾の六郡となった。杉並区域の二〇か村は東京府東多摩郡に属し、中野村に東多摩郡役場が設置された。
 これと同時に大区小区制が廃され、数村を連合して一戸長と戸長役場を持つ連合村が組織された。杉並区域は、次のような六つの連合村に分かれている。
①和田村・堀之内村・和泉村・永福寺村の四村連合、②高円寺村・馬橋村・阿佐ヶ谷村・天沼村の四村連合、③成宗村・田端村・上荻窪村・下荻窪村の四村連合、④上井草村・下井草村の二村連合、⑤上高井戸村・下高井戸村の二村連合、⑥大宮前新田・中高井戸村・久我山村・松庵村の四村連合、である。
甲武鉄道の蒸気機関車が初めて走った明治二十二(1889)年の五月、全国的に市制・町村制が実施され、人口137万余を有する一五の区部に市制をしいて、東京市が成立した。同じ時期、天沼村は近隣の阿佐ヶ谷・馬橋・高円寺・田端・成宗村とと合併して杉並村が誕生した。これら旧六か村はいずれも青梅街道沿いにあって、そこを流れる桃園川と善福寺川は、ともに下流で神田川に合流する。また、桃野小学校とそこから分かれた成田小学校を六か村で共有するなどの連帯性が、杉並村誕生のかぎになった。
 このときに初めて公に用いられた「杉並」という名称は、江戸時代の初めに旗本岡部氏が成宗・田端両村の領主になったとき、知行地の境界を示す杉並木を青梅街道に沿って植えたことに由来する。文化文政期(1804-30)にかかれた江戸近郊図には、村の名前とともに、青梅街道わきに「杉並」と記されている。
 杉並村が誕生したころ、この杉並木はすでに伐採されて姿を消していたが、このあたりが旧六か村のほぼ中央に位置したことと、どの村もそれぞれの自分の旧村名を残すことにこだわりがあったので、ここに別個の「杉並」を、新しい自分たちの村の名称にしたのである。村役場は、阿佐ヶ谷の世尊院の一室を借り受けて開設した。
 杉並村誕生と同時に、和田堀之内村(旧堀之内・和田・和泉・永福寺村)、井荻村(旧上井草・下井草・上荻窪・下荻窪村)、高井戸村(旧上高井戸・下高井戸・中高井戸・大宮前新田・久我山・松庵村)が生まれ、それまでの杉並区域二〇か村は、大きく四か村にまとまったのである。
 杉並村は大正十三(1924)年六月から町制をしいて杉並町となり、近隣の井荻・和田堀之内(実施後は和田堀)・高井戸の三か村も大正十五(1926)年からそれぞれ町制を実施した。  (「天沼8町会 – 江戸時代、明治時代、大正時代」より)]

[1932年(昭和7年)10月1日 – 東京市(15区)と豊多摩郡を含む周辺5郡が合併して東京市域が拡大、35区が成立する。この際、杉並町・和田堀町・井荻町・高井戸町が東京市に編入、4町の区域をもって東京市杉並区が発足。  (wikipedia・杉並区#歴史より)]

[江戸時代に阿佐ヶ谷、天沼、下荻窪、堀之内の四箇村は、麹町山王日枝神社の社領であったそうだ。下井荻村は江戸初期には服部半蔵(三千石)の領地の一部で、上井荻村は半蔵の家来七人共有の領地であったという。次に上井草、下井草は旗本今川氏の領地になって幕末まで続いた。和田村、和泉、永福寺村の大部分は旗本内田氏の領地、他の大部分は、高円寺の御鷹場なども含めて幕府直轄の天領になっていた。
 今ではもう夢か童話のような話だが、旧幕時代、この下井草、上井草では、領主の今川氏が八公二民の年貢を取り、窓税まで取っていたようだ。古い家に残る書類、また建物の形式を見て、八公二民又は九公一民を召し取った上に、窓の税金を取っていたとしか思えない。それなら窓一坪の広さに対し、米何升の冥加金を取るかと言うに、一定した規則はなくて収穫の出来高に従っていたようだ。それでは今年は窓税が払えないということで、窓を壁土で塗りつぶしてしまうと、窓塞ぎ税というのを取りに来る。元禄の頃の俳人宝井其角の作に、江戸市中は田舎と違って窓税の心配無用だから、窓を開け放って雪見が出来て素晴らしいという意味の句があるそうだ。
 江戸幕府の直轄のところでは、年貢は昔ながらの六公四民にしていたようだ。  (「井伏鱒二著 – 荻窪風土記」抜粋)]

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