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東福寺
[東福寺の創建年代は不詳ながら、鎌倉時代初期の創建と伝えられ、戦国時代の享禄元年(1528年)に中興、宥雄(寛永元年1624年寂)が元和七年(1621年)に再中興したといいます。
●新編武蔵風土記稿による東福寺の縁起
(恋ヶ窪村)東福寺
境内除地、七畝、村の南によりてあり。武野山と号す。新義真言宗、府中本町妙光院の末。客殿五間半に六間、本尊大日、木の坐像長一尺許、剏立の年歴を詳かにせず。中興開山宥雄寛永元年三月寂す。(新編武蔵風土記稿より)
●「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」による東福寺の縁起
武野山広源院東福寺はJR西国分寺駅より250メートル程北東に位置します。東面する敷地は上下2段に分かれた段丘を取り込むように構成され、下段には斎場、石段を挟んだ上段に本堂と客殿、寺務所が建ちます。なお、正面の石段傍らには「傾城墓」「傾城墓由来」など一葉松の伝説に因む石碑類が佇んでいます。
本寺には鎌倉時代初期と享禄元(1528)年の開創との寺伝があり、元和7 (1621)年、享保10 (1725)年の再興が伝わります。東福寺は真言宗豊山派で、府中市の妙光院末寺、江戸時代は近接する熊野神社の別当寺でした。現在、本堂南側には子ノ権現(聖堂)が祀られますが、これはもともと百姓十郎右衛門の先祖が祀ったものを、天明4 (1784)年、当寺の飛地境内とされました。また、熊野神社南側に閻魔堂が飛地境内として享保10(1725)年以来ありましたが、第2次世界大戦で焼失し、現在は墓地とされています。(「国分寺市有形文化財調査報告書(神社・寺院)」より) (「猫のあしあと – 東福寺」より)]
阿弥陀堂
[恋ケ窪の宿場の近くに姿見の池と呼ばれる美しい池があった。宿場の遊女たちが、自分の容姿を水面に写して眺めたから、姿見の池と呼ばれたという。それらの遊女の一人夙妻(アサヅマ)という美女と武将畠山重忠との間の悲恋物語が伝えられている。重忠が平家追討のため、西国へ出かけて留守の時、ある男が夙妻に重忠をあきらめさせ、自分になびかせようと「重忠は西国で討死した」と偽りを告げたところ、夙妻は悲嘆の余り姿見の池に身を投げたという。阿弥陀堂は、後に夙妻の死を悼んだ重忠が、その菩提を弔って創建したと伝えられている。現在は、阿弥陀堂はなくなり、その跡は霊園になり、わきの坂道は阿弥陀坂と呼ばれている。 (「阿弥陀堂霊園(国分寺市西恋ケ窪) 駅から歩く武蔵野風土記/ウェブリブ」より)]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「恋ヶ窪 阿弥陀堂 傾城松 牛頭天王」(9-37)
恋ヶ窪 阿弥陀堂 傾城松 牛頭天王(拡大図)
[図会、左ページ下に「こいがくぼ」(姿見の池)、その左上に「阿弥陀堂」、右上に「東福寺」、右ページ中程右端に西恋ヶ窪熊野神社が描かれています。]
カメラ西方向が東福寺です。
カメラ南西方向階段右に阿弥陀堂跡碑があります。