杵築大社(境村の成立ち)

マーカーは杵築大社です。

杵築大社
[杵築大社(きづきたいしゃ)は、東京都武蔵野市にある神社である。旧社格は村社。
大國主大神(だいこく)と事代主大神(えびす)を祀る。また三多摩に現存するものでは2番目に規模の大きい富士塚を擁している。
慶安年間(1648 – 1651年)、結城秀康の三男で徳川家光の従兄弟に当たる松江藩初代藩主松平直政が当所12町四方を将軍家より賜り、御用屋敷を設けて鷹狩場とした。直政がその御用屋敷内に出雲の杵築大社(現在の出雲大社)と稲荷社を勧請したのが当社の始まりである。貞享年間(1684 – 1687年)に松江藩御用屋敷は幕府の直轄地となったが、神社は残され、当地・境本村の氏神とされた。
明治6年(1873年)12月、堺村の鎮守として村社に列格した。昭和21年(1946年)11月、出雲の美保神社より事代主大神を勧請し、「えびす・だいこく」の二福神を祀る神社となった。
杵築大社・wikipedia-photo

  (wikipedia・杵築大社より)]

境村の成立ち
[松江藩主・松平直政の下屋敷跡を開拓
 境村(現在武蔵野市境南町桜堤)の成り立ちについては、他の 3村(吉祥寺村西窪村関前村)のように明確にはわかっていません。有力な説としては、三代将軍・徳川家光の信頼が厚かった松江藩(現在の島根県)藩主・松平出羽守直政(まつだいらでわのかみなおまさ)が、このあたりに鷹場を与えられ、その下屋敷跡を中心に開発されたというものです。開発された時期もはっきりしませんが、検地帳などから、寛文延宝年間とみられています。
 開発の中心となった人物についても、いくつかの説があります。
 ひとつは貞享年間(1684~1688)、松平氏の下屋敷を預かっていた松江藩の家来・境本絺馬太夫(さかいもとちまたゆう)が江戸幕府に開発を請願し、それが許されて開発したという説です。「境」という地名は、境本氏の「境」に由来しているのではないかともいわれています。
もうひとつの説は、上保谷村の農民・三右衛門(さんえもん)が、松平氏の下屋敷跡を新田開発したいと幕府に願い出て許されたという説です。さらに、「境本氏と三右衛門により開発された土地が、やがて一つの村となったのだろう」という説もあります。
 ただ、いずれの説も、この地が「松江藩藩主・松平氏の下屋敷跡である」としていること、そして、この村の鎮守が杵築大社(きづきたいしゃ・島根県の出雲大社の古名)であることからも、松江藩とゆかりの深い土地であることは間違いないでしょう。
境村の地割りは、他の3村のように整然とした短冊型ではありません。このことから、村全体が初めからひとつの計画のもとに開墾されたのではないことがうかがえます。
境村は玉川上水の北側にも広がっていますが、この土地は八代将軍・徳川吉宗の時代(1716~1745)に、幕府による大規模な新田開発で開墾された地域です。元文元(1736) 年の検地帳の中に「境新田」として初めてその名が登場します。その頃から、それまでの境新田村が「境村」となりました。  (「季刊むさしの ナンバー114 2016年春号 武蔵野ヒストリー ルーツを探る 関前と境 (PDF 467.5KB)」より )]

杵築大社 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が杵築大社参道です。

カメラ北方向が杵築大社拝殿です。