マーカーは松山通りです。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図の阿佐谷本村左に、阿佐ヶ谷神明宮前からの松山通りが描かれています。
松山通り
[「松山通り」の由来
目白通りのそばにある「子の権現」という寺への参詣道として使われた道で、子の権現道(ねのごんげんどう)と呼ばれていました。近世江戸時代には盛んに利用された道で、おそらくそのかなりの区間は中世の頃鎌倉へ通じていた道である可能性があります。 阿佐ヶ谷は中世の文書に「あさがや殿」とあるように、ここには有力な勢力がいたといわれ、少なくとも中世の後期足利時代にはかなりの拠点であったことがわかっています。従ってここを通過する道が地方的には重要な交通路であったようです。(「米良文書」、応永二七年(1420)) 現在、「子の権現」は円光院にある「子ノ聖観世音」と一緒に祭られていますが、ご神体も別で、以前は場所も別であったそうです。子の日の子の刻に市が開かれ、縁日には参詣者で賑わったそうです。「松山通り」という名前は、松林があったことに由来しますが、何時からかは不明です。尚地域の方言で「山」は森や林の意味です。北3丁目が明治二二年「松山」に子字名が改定されたことからも伺えます。 阿佐ヶ谷駅から南は、大宮八幡宮へと通じ、更には鎌倉へ通じる鎌倉街道の一つでもあったといわれています。 「街道を尋ねて」より一部引用
「松山通り交友会」の歴史
大正十二年の関東大震災後、下町から移住の人々で街並が整い始め、大正十四年四月一日「松山通り交友会」が、法仙庵の北側から日大通り近くの電信隊原っぱまでの四十店舗ほどで発足。お店も移転して来た方達が大勢。小松屋豆腐店の南側に在った「河合書店」が初代会長に。今の高村建材工業も「高村石材」と呼ばれ、運搬に牛車が使われていたそうです。昭和六年には現在の大神輿を交友会で製作。 昭和二八年には、商店数も多くなり、北側の商店街を「親交会」ヘと2分割。昭和二一年十二月一日から木炭バスが中村橋まで「松山通り」を通って、運行開始。 二十年前の中杉通り開通により、バス通行は終了。平成十二年六月第一回ゆうやけ市開催、十五年末までに通算十七回開催しています。 (「ゆうやけ市 – 阿佐ヶ谷」 – 「松山通りまめ知識」より)]
カメラ北西方向が松山通りです。
カメラ位置は中杉通り交点で、カメラ南西方向が松山通りです。