武蔵国府跡

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武蔵国府跡
[武蔵国府跡(むさしこくふあと)・国史跡 武蔵国府跡 国衙跡地区(国司館地区)は、東京都府中市に存在する武蔵国国府に関する遺跡である。指定史跡として徳川家康の府中御殿跡、国司館地区も含む。本項目では、関連する「武蔵国府関連遺跡」についても記述する。
武蔵国府は、府中市に奈良時代の初め頃から平安時代の中頃にかけて置かれ、武蔵国の政治・文化・経済の中心地として栄えていた。
国府成立には、府中市内に古墳時代築かれた古墳群、特に武蔵府中熊野神社古墳が特に関わり合いが深いと推測されている。
●昭和52年 宮町2-7調査(26次) 大型建物柱穴群を検出。国衙中枢部分と推定
●平成7年 宮町2-27 当初の京所国衙推定地が「多磨寺」であることが判明(国衙東側範囲が絞られる)
●平成17年 宮町2-5(1284次) 国衙中枢が判明(赤塗りの柱)
●平成23年 境内宮之咩神社建て替え調査(1539次)出入りのための「西門」発見
かつて武蔵国府は、「多麻郡に在り」と『和名類聚抄』に記述があるだけで、所在地に関しては所説あり正確な事が不明であった。
昭和50年以降の発掘調査により、大國魂神社境内南北溝と旧甲州街道と京所道に挟まれた、南北300メートル東西200メートルの範囲が「国衙」であると判明し、その中の東西南北100メートルの範囲が国衙中枢の造営だと考えられる。 宮町2丁目5番2、宮町3丁目1番1、1番2、1番3、宮町2丁目1番16と同3丁目1番1に挟まれ同3丁目1番1と同3丁目6番3に挟まれるまでの道路敷きを含む場所が武蔵国府跡と指定された。
国府を中心に、東西2.4キロ、南北1.2キロ範囲内で住居が発掘され、確認されたものだけで4000軒にも及び、7世紀末~8世紀にかけて爆発的に人口が増加した。 主な出土品は、瓦、セン(漢字では、ツチ編に専門の「専」と書き、古代のレンガのこと)、円面硯。
史跡指定範囲内の宮町2丁目5番2に「史跡整備地」が用意され、「ふるさと府中歴史館」と共に見学する事が可能となっている。
発掘調査は活発に行われ1400か所以上で行われている。 範囲は武蔵野台地上に広がり、中心は武蔵国総社「大國魂神社」(東京都府中市宮町)にある。大型東西棟・総柱の南北棟建物が発掘され、国府の主要施設があきらかになった。
多磨寺
猿渡盛厚は、武蔵総社の東方にある塔心礎と古瓦を残す京所廃寺が、官寺的性格をもっていたとしている。仏堂基壇の跡や幟旗を支える機構が確認されており、出土瓦には諸郡名を刻んだものの他に「多寺」と記した文字瓦があるからである。そして古瓦の発掘発見は広範囲にわたるため、その付近一帯に,国分寺の前身に当る二寺と国庁の存在があったと考察している。創建年代は、国衙成立に先行する白鳳時代(7世紀後半から8世紀初頭)。瓦は「ふるさと府中歴史館」に展示。
国司館地区
府中本町駅のすぐ東側、大國魂神社との間に位置する。西暦700年頃、武蔵国司の館が建てられていた地区。西暦1600年頃、徳川家康がここに「府中御殿」を築き、鷹狩でたびたび訪れていた。
府中御殿 – 1590年建、1646年焼失。府中市本町にある「御殿山」と呼ばれる富士山が見える景勝地の御殿で、発掘されたのは1646年に焼失したもの。徳川家康・徳川秀忠徳川家光が鷹狩・鮎漁をした際に休憩や宿泊をしたという御殿跡を発掘し、御殿跡は国の史跡に追加指定した。茶屋としても使用されたもので、水を汲む御殿坂を通り多摩川へ至る道は現在でも「御茶屋街道」と呼ばれている。
武蔵国府跡(武蔵国衙跡地区)・wikipedia-photo

国衙の中枢にあった建物の柱跡・wikipedia-photo

  (wikipedia・武蔵国府跡より)]

武蔵国府跡 (武蔵国衙跡地区) – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が武蔵国府跡です。