江古田浅間神社

マーカーは江古田浅間神社です。

江古田浅間神社
[江古田浅間神社は、練馬区小竹町にある浅間神社です。江古田浅間神社の創建は不詳ですが、江戸時代には富士講の人々に崇敬され、富士山から持ち帰った溶岩で富士塚が作られ、江古田富士と呼ばれていたといいます。江古田富士は、江古田の富士塚として国重要文化財に指定されています。

『江古田の富士塚
江古田の富士塚は、富士講の一派小竹丸祓講によって天保10年(1839)に築造されたものと考えられますが、一説には文化年間(1804~1818年)築造ともいわれています。高さ約8m、直径約30m、関東大震災の時に損壊しましたが、その後復旧され、塚全体が富士の熔岩で覆われています。
頂上の唐破風屋根のついた石は、天保10年に造立されたもので、他に経ヶ嶽・太郎坊・小御嶽神社の石碑や大天狗・小天狗神猿などの石像もあり、元治2年(1865)の講碑、大正12年震災時の御神体修築の碑などが建っています。社殿の前には文化4年(1807)の石燈篭や文化9年(1812)の手手鉢なども残っています。
都区内の富士塚の中では、大規模な部類に属し、庶民信仰の様相を示すものとして、昭和54年5月21日、国の重要有形民俗文化財に指定されました。(練馬区教育委員会掲示より)』  (猫のあしあと – 江古田浅間神社」より)]

国指定文化財:江古田の富士塚
[江戸時代中ごろから昭和初めごろにかけて、江戸八百八講と言われるように、富士山や神奈川の大山に登拝しに行く富士講や大山講などの山岳信仰者の集まりが練馬区内にもたくさんありました。
 富士講は、霊峰富士に登り浅間神社に参拝することを目的に結成されたものです。年ごとに講の代表者として参拝するものを選び、必要な経費を講員全員で負担していました。富士講がさかんになり、江戸時代終わりごろから富士山に似せた富士塚が各地に築かれました。富士塚に登拝すると、実際に富士山に出かけたのと同じ御利益があるとされていました。
 江古田の富士塚は、高さ約8メートル、直径約30メートルの大きさで、通称“江古田富士”と呼ばれています。江戸時代後期に下練馬村・中新井村・中村の各講により構成される「小竹丸祓講(こたけまるはらいこう)」によって天保10年(1839年)に築かれたものと考えられます。大正12年(1923年)関東大震災によって損壊しましたが、その後、復旧工事が行なわれ、塚の一部が富士山の溶岩で覆われています。都内の富士塚の中では規模の大きいものです。画像リンク1画像リンク2画像リンク3画像リンク4画像リンク5画像リンク6画像リンク7
昭和61年度区登録・昭和54年度国指定  (「練馬区ホームページ – 江古田の富士塚 (えこだのふじづか)」より)]

江古田浅間神社 – Google Map 画像リンク」、「江古田の富士塚 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向が江古田浅間神社参道口です。

江古田浅間神社境内のカメラです。

富士塚へのストリートビューです。

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