マーカーは清戸道の石標と「清戸道と千川上水」の案内板です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
清戸道の石標と「清戸道と千川上水」の解説板
[清戸道(きよとみち)と千川上水(せんかわじょうすい)
この前の道路を清戸道といいます。清戸道は練馬区のほぼ中央を東西に横断し、区内の延長は約十五キロメートルになります。東へ行くと目白駅を経て江戸川橋に至り、西へは保谷・東久留米を経て清戸(清瀬市)に達します。
大正四年に武蔵野鉄道(西武鉄道の前身)が開通するまでは練馬・石神井・大泉から市中へ出るのに、この道が最も近道でした。朝早く大根や野菜を積んで町に向い、昼過ぎには下肥を積んで帰ります。清戸道は練馬の農業にとって、なくてはならない道でした。
この辺は清戸道に沿って千川上水が流れていたので、千川通りとも言います。千川上水は元禄九年(一六九六)、江戸小石川、本郷など城北方面の飲み水として玉川上水より分水された上水道です。開通から十一年後の宝永四年(一七〇七)、上水沿い二十か村の農民の願いで、灌漑用水として利用することが許されました。用水の管理は、工事を成功させた功により、代々千川家が当りました。千川の水を引いた田は一反(十アール)について米三升(五・四リットル)を水料として千川家に差し出しました。千川の水の恩恵を受けた田は全部で百町歩(百ヘクタール)にもおよんだといいます。
この辺は、昭和二十年代の終わり頃から、暗渠工事が始まりました。
平成十六年三月
練馬区教育委員会 (「清戸道(きよとみち)と千川上水(せ… – Monumento(モニュメント)」より)]
カメラ北北西方向に清戸道の石標と「清戸道と千川上水」の案内板があります。