マーカーは水神社です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図の「和泉」下に六郷用水が描かれています。六郷用水の多摩川取水口上が玉翠園が出来る場所です。
玉翠園一代
[井上君代さんが生まれた明治三十九年、多摩川にのぞんだ和泉圦上(いりうえ)の山林二千坪ほどを父の半三郎さんが買い取った。老松が茂り、多摩川の向こうには、多摩の横山を前景に、丹沢・大山の山並みや、富士山が遠望できる景勝の地であった。やぶを開墾して、植木を植え、東屋(あずまや)を作ったりして憩いの場所「井上公園」が造成された。現在、日本興業銀行の社員寮になっているところ(中和泉四の一五)である。
その頃調布の多摩川べりには玉華園という公園があり、狛江の小学校の生徒が徒歩で遠足に出かけた。井上公園ができると、ここが一年生の遠足地となる。井上公園は玉華園と同じようなアイデアで造られたものと思われる。半三郎さんの頭の中には都市近郊のリゾート構想があったのだろう。彼は青山師範の出身、玉華園の経営者矢田部さんとは同窓であった。大正二年になると、公園の中に玉翠亭という川魚専門の料亭を始める。十年には、公園内に小学生のための林間学校を建設し、宿泊設備を整えた。
アユ解禁(六月一日)の前夜祭には花火がたくさん打ち上げられ、園内は村人たちでにぎわった。シーズンオフの林間学校では、各種の研修会や農繁期保母の講習会なども行われた。玉翠園は今日の公民館のような使命も果たしたのである。
昭和十八年、戦況の悪化から料亭の営業が続けられなくなり廃業、すべてを東京都に売却した。
昭和二十五年の春、折口信夫は戦前たびたび足を運んだ玉翠園は今どうなっているのだろうと国領駅に降り立つ。荒れ果てた廃屋をめぐりながら、お弟子さんたちの名前をあげて三十年前を回想した折口のことば。「……皆若かったね。この家であばれて、二階からころげ落ちたり、雪の日に来て、雪に頭を押しつけて、デスマスクといってさわいだりしたものだ。」(岡野弘彦『折口信夫の晩年』) (「玉翠園一代 – 狛江市役所」より)]
玉翠園
[玉翠園の船遊び
玉翠園の石垣下の辺りは入江のようになっていて、いつも四、五隻の屋形船がつながれていた。連絡があると畑に出ていた人も船頭、漁師に早変わりして駆け付ける。
流れに出ると、舳先(へさき)の漁師が投網(とあみ)を打つ。かかったアユやハヤは持ち込んだ七輪で焼いたり天ぷらにする。お客さんは即席の新鮮な味覚を堪能する。アユの塩焼き・天ぷら・魚田(ぎょでん)、こいこくやコイのあらい、ウナギの蒲焼、ナマズのスッポン煮などは店の方のメニュー。酒は調布萩本の「春秋」、ビールはヱビスビールだった。
コイやウナギは根川の冷たい水を引いて造った生簀(いけす)にいつもあふれていた。アユは近所の漁師が夜のうちに投網で獲って売りにきた。ウナギをドウで獲って、「おばさん買って」と裏口に持ち込む子どもたちもいた。結構お小遣いになったという。
芸者さんは調布からの遠出であった。電話がひけるまでは男衆が自転車をとばして呼びにいった。人力車にゆられてくるのだから、到着までにはかなりの時間がかかった。門の脇には帰り客を待つ人力車が何台も並んでいた。
玉翠園の「玉川清遊御案内」というちらし(昭和六年)によると、遊船(家根船、船夫付き三時間以上)、五人乗りまで三円五十銭、十人乗りまで六円、十五人乗りまで八円五十銭、二十人乗りまで十円となっている。なお漁夫一人網付き一日二円十銭であった。
川魚料理は鮎(アユ)、鯉(コイ)、鰌(ドジョウ)一人前四十銭以下、鰻(ウナギ)、鯰(ナマズ)一人前八十銭以下、日本酒五十銭以下、ビール四十五銭以下、サイダー三十銭以下。いずれも「以下」というのが面白い。
団体会席(会費一円から三円)、園遊会(会費一円)なども引き受けた。句会や歌会などの利用も盛んだったようだ。お客さんは小田急が開通するまでは京王線北浦(後に国領)から徒歩や人力車でやってきた。 (「玉翠園の船遊び – 狛江市役所」より)]
カメラ北東方向が玉翠園跡の石垣です。