マーカーは一の橋・石橋供養塔です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左下に多摩川が流れ、多摩川の右上、多摩川に並行して六郷用水が描かれています。また、「和泉」右下の六郷用水に架かる橋が田中橋です。]
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図の中央・狛江村左方向・字田中の左上が田中橋です。
[田中橋は、地元では「橋場」と呼んでました。六郷用水も「橋場の川」って言ってましたね。昭和初めごろは、橋の辺りは小高くなっていて、土手沿いに木が植えてありました。うっそうとしていて子どもには夜は怖い場所でしたが、ヤマブドウやアケビなんか、採ってきて食べましたね。そこだけは、当時は珍しい街灯が立っていました。昭和4年に木の橋からコンクリート製になったんですが、幅4m、長さ10mでした。水面までは4mもあって、洗い場まで作物を持って上がり下りするのがたいへんでした。下流で水が必要なときは深さがひざぐらいまであったけど、秋から冬は根川の水とわき水だけで流れも細かったですね。橋の近くには用水の洗い場と、八百屋と花屋があったり、花を入れておくムロもありました。下流に冬に氷を作っているところがあったんだけど、スケートをして怒られました。昭和35年ぐらいまでは水量も豊かで、きれいでした。ホタルやサワガニもいっぱいいましたよ。学校へは駄倉橋と和泉橋を渡っていったんです。駄倉橋はレンガ造りのすごくきれいな橋でした。橋の横には、村で一軒だけ文房具を買える店があって、教科書もそこで買いました。 (「市街化で次々と姿消す橋」より)]
[狛江を過ぎる主要な道には次の三つがあった。①江戸-世田谷-喜多見-岩戸一の橋(または駒井)-和泉-渡船場-登戸、②六郷-大蔵-喜多見-岩戸一の橋-和泉-国領(または矢ケ崎)、③高井戸-祖師谷-入間-覚東-和泉-田中橋-渡船場-登戸。
①は狛江を東から南西に横切るもので、江戸道、大山道、登戸道ともいわれた。昭和十年代までは東京方面へ下肥を汲みにいく車で早暁からにぎわった。
②は品川道、六郷道、府中道、筏道とも呼ばれた。狛江を東から北西へよぎる道である。大正頃までは、多摩川を六郷まで筏(いかだ)を運んだ筏乗りの、家路を急ぐ蓑笠(みのがさ)姿がよく見られたという。
③は狛江を南北に縦断する道である。高井戸道、鎌倉道とも呼ばれた。かつて田中橋の南の用水に鎌倉橋(Google Maps)という橋がかかっていたが、鎌倉道の伝承に基づいて名付けられたものであろう。狛江に入る少し手前の調布市入間町には、「是より泉むら子安地蔵尊二十五丁」とある百万遍供養塔(天明元年=一七八一)と「西 いづみ村ぢぞう道」とある庚申塔(文化九年=一八一二)が残る。泉龍寺の子育地蔵に参詣する人が少なくなかったことを語っている。 (「狛江の古い道 – 狛江市役所」より)]
カメラ位置は田中橋交差点で、カメラ東南東方向に六郷用水が流れ、カメラ位置付近に田中橋が架かっていました。旧橋の親柱及び庚申塔がカメラ東南東方向右・分岐路、高千穂稲荷神社裏に残されています。
カメラ北西方向に田中橋の親柱及び庚申塔が移設されています。