マーカーは甲辛供養塔です。
甲辛供養塔
[市指定有形民俗文化財
安養寺の甲辛供養塔(こうしんくようとう)
昭和四十七年三月十六日指定
この庚申塔は、代官野村彦太夫により吉祥寺新田村の検地を受けた翌年の寛文五年(一六六五)十二月に建てられ、旧北多摩郡では最古のものに属します。碑の高さは一一七センチメートル、幅三九・五センチメートル、厚さは一三センチメートルあり、銘文には吉祥寺新田開発に関係の深い人達の名が刻まれ、特に女性の名が十数人も記されているのは珍しいことです。
銘文中の「南無阿弥施仏」は「南無阿弥陀仏」、「甲辛」は「庚申」だと考えられます。
庚申塔は六十回目(日、年)ごとに回ってくる「庚申」の夜を供養する塔です。
平成二十三年一月二十七日建設
武蔵野市教育委員会 (「各地の庚申塔(武蔵野市-1) ( 歴史 ) – TATSU**のブログ(東京都+川崎市 ..」より)]
吉祥寺の発祥
[武蔵野市にある吉祥寺のまちの名は、吉祥寺という寺院に由来しています。この吉祥寺とは江戸時代の大寺であり、江戸城築城の際、井戸を掘った場所から「吉祥増上」の刻印が出てきたため城内(現在の千代田区の和田倉門周辺)に「吉祥庵」を建てたのが始まりです。その後、吉祥寺として本郷元町(現在の文京区)に移りました。現在の水道橋の北側、JR中央線の車窓からも眺めることができる都立工芸高校付近にあたります。当時の吉祥寺付近は門前町としてにぎわいました。
明暦3(1657)年に「振袖火事」として知られる明暦の大火が発生。本郷丸山の本妙寺から出たといわれる火は、江戸城本丸と、江戸市街の大半を焼失させました。さらに翌年、吉祥寺大火と呼ばれる火事が、前年の火事で焼け残った神田一帯を焼き払い、吉祥寺も焼失しました。度重なる大火への対策として、江戸幕府は江戸城周辺に火除地(ひよけち・延焼防止用の空地)を設け、市街地を再編成しました。このとき武家屋敷地を優先的に設定したため、市街地に住んでいた農民や町人の中には退去を迫られる者が出ました。吉祥寺門前で暮らしていた人たちも移住を余儀なくされ、幕府は彼らに代替地として札野の土地を与えたのです。
新天地に移り住んだ町人たちには5年間扶持米(ふちまい・食糧)が与えられ、さらに造宅費は貸与するという補償が付けられましたが、その生活は過酷なものだったといわれています。住民らは移住前の地名をとってその地に吉祥寺新田と名付け、寛文4(1664)年の検地で独立村となりました。
一方、大火によって焼失した吉祥寺は、現在の文京区本駒込の地に移転。「西は日光御成街道をへだて駒込片町、南は百姓地、北は駒込富士前町に接していた」といわれています(『江戸東京地名事典』より)。当時は27の学寮(僧侶の教育機関)が設けられていました。関東における曹洞宗唯一の旃檀林(せんだんりん・学寮)を有しており、この旃檀林が、駒澤大学の前身の一つとなりました。 (「季刊むさしの ナンバー107 2014年夏号 武蔵野ヒストリー ルーツの地を探る 吉祥寺と西久保 (PDF 1.1MB)」より)]
[現在、武蔵野市内で「吉祥寺」が冠される町名には、吉祥寺本町(ほんちょう、一丁目〜四丁目)、吉祥寺北町(きたまち、一丁目〜五丁目)、吉祥寺東町(ひがしちょう、一丁目〜四丁目)、吉祥寺南町(みなみちょう、一丁目〜五丁目)がある。これに御殿山(一丁目・二丁目)と中町(一丁目〜三丁目)を合わせた範囲がかつての大字吉祥寺である。 街はJR中央線および京王井の頭線の吉祥寺駅を中心に碁盤の目状に広がっている。小高い台地の上の平坦な場所にひらけているが、南端で三鷹市井の頭と接する付近のみ傾斜地になっている。 (wikipedia・吉祥寺より)]
「安養寺の甲辛供養塔 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向は安養寺参道で、参道左に甲辛供養塔があります。
安養寺参道・甲辛供養塔(Google Map 画像)
甲辛供養塔(吉祥寺の発祥)(Google Map 画像)
甲辛供養塔(吉祥寺の発祥)案内板(Google Map 画像)