マーカーは白明坂(しらみざか)案内碑です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で西府村上方向、二本の道が鋭角で合流する点の上が白明坂(しらみざか)になり、鎌倉街道は新中町地の右で、甲州街道の屋敷分左からの道になります。
白明坂(しらみざか)
[この坂の名は、新田義貞と北条泰時が元弘三年(一三三三)五月に鎌倉幕府の興亡をかけて戦った折に、義貞が幕府方を分倍河原に攻め込もうとしてこの坂まで疾駆しましたが、ここで夜が明けてしまったことに由来するといわれます。別名を「見返り坂」とも呼ばれています。
この坂道は鎌倉街道の裏街道ですが、中世には多くのつわものどもが駆けめぐったことでしょう。
この坂の位置はもう少し西方とする説もあります。
昭和六十年三月 府中市]
カメラ北東方向に白明坂(しらみざか)案内碑があります。