福相寺

マーカーは福相寺です。

福相寺
[当寺は、正住山と号する日蓮宗の寺院で、本尊十界諸尊と日蓮上人坐像です。「江戸紀聞」「改撰江戸志」などによると、当寺は、天正17年(1589)一如院日重身延山久遠寺20世)により下谷に開創され、寛永年間(1624-1643)寺地が上野寛永寺の境内地となったため、小石川白山前に移転したとされています。また、一説によると、寛永5年(1628)正住院日協により谷中三崎に開創され、元禄16年(1703)火災に遭い焼失したため、その後、小石川白山前に移転したと伝えられています。
当寺には、病気平癒に御利益があり、また福を授けてくれるという「願満大黒天」が安置されています。その由来は、当寺16世日元大阪に立ち寄った際、長病の某氏のために同家に安置されていた伝教大師の作といわれる大黒天を清めお祈りしたところ、全快し、これが縁でこの像は日元に託され、当寺鎮護の善神として境内鎮護大黒堂に安置されたということです。江戸時代後期には、その「来縁の記」を刷物にして参詣者に配ったほど庶民の信仰を集め、また、遠く関西方面からも参詣者があり、その人々が奉納した石塔が今も境内に残っています。
現在地には昭和12年に移転してきました。墓地には、俳人・長谷川零余子(昭和3年没)・長谷川かな女(昭和44年没)夫妻の句碑と墓があり、また、初代杉並区長・魚井重太郎の墓もあります。  (「111 福相寺 【寺院】(堀ノ内3丁目48番58号)|杉並区公式ホームページ」より)]

木造大黒天像
[本大黒天像は、福相寺16世日元が、大阪の佐藤某の家に伝教大師作として伝わっていた大黒天を譲り受け、福相寺に持ち帰り、祀ったものと伝えられる。江戸時代には「願満大黒天」と呼ばれ、その由来記を版行して参詣者に配るほど信仰を集めたという。
  頭巾を頭にのせ、左肩に大袋を担ぎ、米俵の上に立つ本大黒天像は、室町時代から江戸時代初期にかけての彫刻にみられるおおづかみで、おおぶりな彫り口の特徴を持つ。
  版木には先に記した大黒天の由来記「願満大古久天神来縁の記」のほか、駒込(現文京区白山)にあった福相寺の境内を描いた多色刷りの団扇絵、護符などがある。団扇絵には現在も残っている石造物の鼠像や幟立も描かれている。護符の多くは大黒天の護符で、所在地部分を「堀ノ内」など現在地を示すよう埋め直されているものもあり、移転後も版木を使用していたことがわかる。
  石造物は、寛政11(1799)年に造立された髭題目願満大黒天碑を始め、大黒天の神使である鼠像、「大黒天」の大幟立てたと思われる幟立石柱、石燈籠である。特に、鼠像は鼠と米俵の彫刻が精緻で優れた作品であるとともに、鼠の彫像の石造物では国内でも古例に属するものとして重要な例品である。
  福相寺は昭和12(1937)年に現在地に移転した寺院だが、大黒天像、版木、石造物は福相寺の大黒天信仰の隆盛を示すものとして貴重である。これらが一括して伝えられていることで、大黒天像と版木・石造物とがお互いの意義を強調しており、これらの価値は極めて大きい。  (「杉並区教育委員会 – 平成19年度 指定登録文化財」より)]

福相寺 – Google Map 画像リンク

カメラ西南方向が福相寺山門です。

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