マーカーはカメラ位置です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1944~1954年の地図に荻窪駅北口に広場はまだありません。
「戦前の東京23区が見渡せる空中写真を地理院地図上で初公開」 – 「荻窪駅周辺」(1945-1950年写真には荻窪駅北口の状況がとらえられています。1961-1969年の写真では、三福マーケット火災後確保された場所がバスロータリーになっている状況がとらえられています。)
「Goo 地図(昭和22年[1947年]航空写真)」(荻窪駅北口の状況がとらえられています。昭和36年[1961年]の写真では、三福マーケット火災後確保された場所がバスロータリーになっている状況がとらえられています。)
「東京戦後地図 ヤミ市跡を歩く – Google ブック検索結果」
[戦後の荻窪の歴史は、ある一面では商店街の歴史といっても過言ではない。
戦後の食糧難で、日々の糧を求めての生活から立ち上がった人々を支えてきたのが、荻窪のマーケット群で、復興し発展してきた町の様子を伝えるのが、そのマーケットを起点とする商店街の発達だったからである。
昭和十八(1943)年、太平洋戦争が苛烈化して本土空襲が始まると、空襲による延焼を防ぐため、建物の強制疎開が行われた。狭い道路を拡げ、中央沿線は線路の両側を十五メートル、駅の周辺三十メートルにある建物は全て取り壊されて大きな空地になった。
終戦後、こうした空き地にはいち早く露店が並び、道路にまで溢れた。空地が簡易マーケットに変わっていくのに、そう時間はかからなかった。代表的なところでは、日本DECのビル(現インテグラルタワー)のあるところには国際マーケット、駅前通り商店街のところには引揚げ者マーケットができ、野村證券荻窪支店のところには荻窪市場があった。そして、タウンセブンのところには、その前身の新興マーケットができた。
戦後の混乱期に統制経済となって、食糧難の当時、統制品を売ったため、一時的には闇(ヤミ)市と呼ばれたが、これらマーケットは、日々の糧を求める荻窪の人々に無くてはならない存在だった。また、ここには、荻窪ばかりではなく遠く八王子あたりから来る人々の生活も支えたのだった。
戦後すぐにできた、これらのマーケット群は社会が落ち着いてくると、その使命を終えたように消えて、新しい商店街へと発展していったのだった。荻窪では、昭和二十五(1950)年ぐらいから国際マーケット、引揚げ者マーケットが無くなり、やがて、新興マーケットだけが残っていた。
やがて駅北口再開発計画が持ち上がり、新興マーケットは昭和五十六(1981)年八月三十一日「タウンセブン」としてオープンした。 (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – わが街、荻窪」より)]
[戦争中、鉄道を周辺の爆撃による延焼から守るため、強制疎開で建造物など一切を除去し更地にして防火帯としました。これによてできた駅前広場は、終戦直後には闇市のたっ格好な場所となりました。戸板一枚での商売から、すぐに小さく組末な垂木とべニヤのバラックづくりの建物が密集したマーケットになりました。駅北口を出ると目の前が路地、挟んで細い路地の人り組んだマーケットで、三福マーケットと呼ばれました。ある日、不審火による火災があって、あっと言う間に燃え広がり、バラックづくりのマーケットは焼失してしまいました。ここは広場計画用地であったため、即刻、荻窪警察署、荻窪消防署は建物のなくなった区画をトラロープを張って人の出入りを禁じ、狭いながらも駅前広場を確保しました。 (「荻窪界隈の歴史散歩 東南コース/ (平成23年5月10日) | 荻窪百点.com」より)]
カメラ位置は荻窪駅前交差点で、カメラ南南東方向が荻窪駅北口広場で、カメラ西南西方向・荻窪市場跡に建つ野村証券荻窪支店ビル、その右方向荻窪駅北口交番の向こうが新興マーケット跡に建つ「タウンセブン」です。また、カメラ南東方向に中央マーケット、国際平和第二マーケットがあった荻窪銀座街、その向こうの建物がインテグラルタワーで国際平和マーケットがありました。