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荻窪銀座街
[荻窪駅北口駅前に、戦後の闇市から発展した商店街がある。「荻窪銀座街」と呼ばれる一角には、不燃の外装を張り付けた木造2階~3階建ての仮設的な小建築=いわゆるバラック街が形成されている。同じ中央線沿線の吉祥寺駅前にも通称ハモニカ横丁という闇市から発展した商店街がある。ハモニカ横丁が、駅前の火除け地(空地)に戦後焼け出された人々が集まって形成した闇市から発展したように、荻窪銀座街も同様の成り立ちなのであろう。
古臭い駅前商店街だった銀座街も、バブル期に巻き起こるラーメンブームの火付け役となった「荻窪ラーメン」で有名になった。戦後60年が経ちこのような空間はなかなか見られなくなってきている。戦争を経験した人々の持つ「戦後のバラック」というマイナスイメージは、戦争を知らない今の人々にとってはどこか懐かしい独特な空間、他では味わえない空間としてプラスイメージに変わってきている。荻窪銀座街は吉祥寺ハモニカ横丁ほど人は訪れていないが、特異な空間を味あわせてくれる。 (「荻窪銀座街」より)]
荻窪ラーメン
[戦後、荻窪駅北口には闇市ができ、駅近くに数軒のラーメン屋が並んだ。後にこれらの店は青梅街道沿いに店舗を出すようになっていく。
荻窪を中心とする中央線沿線には、昭和初期から作家文人が多く住み、彼らのいきつけの店などがたびたび随筆に書かれて知られていた。これらのラーメン店にも文化人のファンが多く、すでに1960-70年代には「春木屋」が映画監督の山本嘉次郎のグルメ本で紹介される等、荻窪ラーメンは比較的早くから一部では有名な存在であった。1985年に公開された伊丹十三監督の映画「タンポポ」は、「佐久信」をモデルに制作された。
荻窪ラーメンが全国的に知られるようになったのは、バブル期のグルメブームの裾野に巻き起こった全国的なラーメンブームで、テレビや雑誌等のメディアを通じてたびたび紹介されたことが大きい。
1987年に、東洋水産(マルちゃん)が「荻窪ラーメン」という商品を発売し、CMに吉幾三を起用して宣伝したことも、荻窪ラーメンの全国的な知名度向上につながった。また、カネボウフーズも、ラーメン食べある記「荻窪ラーメン」を発売していた。
春木屋(荻窪ラーメンの代表的な存在の店のひとつ。)・wikipedia-photo (wikipedia・荻窪ラーメンより)]
「荻窪銀座街 (東京都杉並区) – 東京DEEP案内」、「荻窪の居酒屋・鳥もとの名物大将に聞く(前編) | なみじゃない、杉並」、「荻窪の居酒屋・鳥もとの名物大将に聞く(後編) | なみじゃない、杉並」
カメラ東南東方向が荻窪銀座街です。
カメラ北北東方向が荻窪北口駅前通商店会です。ここに全国に6店舗ある喫茶店「邪宗門」の一つがあります。(荻窪 邪宗門 (オギクボジャシュウモン) – 荻窪/喫茶店 [食べログ])
「荻窪邪宗門 – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向がアサヒ通りです。この小路左に焼鳥「銀座鳥ぎん荻窪店」があります。(鳥ぎん 荻窪店 (とりぎん) – 荻窪/焼鳥 [食べログ])
「鳥ぎん 荻窪店 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向荻窪銀座街路地が荻窪東銀座協同組合街になり、入口左に荻窪東銀座協同組合見取図が掲示されています。
カメラ北北西方向が焼鳥「鳥もと本店」で、その左がもつ焼き専門店「カッパ」です。(鳥もと 本店 (とりもと) – 荻窪/焼鳥 [食べログ]・カッパ – 荻窪/もつ焼き [食べログ])
「鳥もと – Google Map 画像リンク」「カッパ – Google Map 画像リンク」
カメラ南方向が荻窪中華そば「春木屋荻窪本店」です。(春木屋 荻窪本店 (はるきや) – 荻窪/ラーメン [食べログ])
「荻窪中華そば 春木屋 荻窪本店 – Google Map 画像リンク」