マーカーは荻窪駅大踏切跡です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年の地図に荻窪駅東に最初の踏切、1917~1924年の地図には移設後の踏切が描かれています。
「戦前の東京23区が見渡せる空中写真を地理院地図上で初公開」 – 「荻窪駅周辺」[1936年頃写真には四面道以西が拡幅され、荻窪駅前周辺は拡幅以前の状態がとらえられています。1945-1950年写真には青梅街道(天沼跨線橋)・旧青梅街道(大踏切)がとらえられています。]
「Goo 地図(昭和38年[1963年]航空写真)」(荻窪駅東方向に大踏切が捉えられています。大踏切の廃止は昭和41年[1966年]4月6日)
荻窪駅大踏切
[明治24(1891)年の末、上荻窪・下荻窪村・天沼村の接点ともいうべき、青梅街道と線路が交差する近くに、甲武鉄道第八番目の駅として荻窪駅が開設された。杉並区域で最初にできた駅である。
開設当初の駅舎は南口だけで、跨線橋はなく、天沼村からの利用客は青梅街道の踏切を渡って行って切符を買った。
乗降客は明治の末までずっと一日平均130人程度で、いつも閑散としていたが、荻窪駅には乗降客のホームとは別に、北側に貨物専用のホームがあった。大きな蒸気機関車が、貨車の入れ替え作業を毎日行っていた。当時は青梅街道の踏切が駅のすぐ近くにあったため作業に不便なので、後に踏切の位置が、現在、線路をくぐっている地下道の場所である。踏切が東に移ったことによって、四面道のほうから利用する人は大回りをしなくてはならなかった。慣れた人は線路を歩いて、直接ホームに上がるのが普通だったそうだ。 (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 明治時代」より)]
[昭和30年2月天沼橋の完成によって、青梅街道が全てが拡幅されて名実とともに幹線道路となった、そして、”開かずの踏切”と呼ばれた大踏切は閉鎖され地下道となり、元来の青梅街道の使命を陸橋側にゆずった南側街道は、旧街道的存在として現在に、その名残りをとどめている。 (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 昭和時代・青梅街道の交通の今昔」より)]
[南北通路の地下道(大踏切)
明治22年に開通した甲武鉄道は荻窪で青梅街道を横切るため、踏切ができました。ここは荻窪にとって、街道というより大切な生活道路の大動脈で、町の南北をつなぐ重要な役割を果たしました。明治39(1906)年に鉄道国有法ができ国有鉄道となった中央線は、その後は首都の重要路線として発展を続け、その沿線の発展と通動工リアの拡大をもたらしました。しかし、それは電車ダイヤの過密化となり、ここは開かずの踏切となり、荻窪にとっては困った事態となりました。さらに、国鉄は輸送力増強のため、中央線の複線化に着手、ともなう鉄道の高架化を計画しました。ところが、荻窪駅は青梅街道陸橋を理由に地上線のままとなり、そのために踏切は閉鎖となり、荻窪は南北をつなぐ唯一の道をなくしました。
代わりに杉並区によって地下道が造られました。しかし、車の通行ができなくなったばかりか、現在より狭く暗い地下道は敬遠され、南北の交通は減少しました。それでも、ここは駅近くで南北をつなぐ唯一の箇所だったので、踏切が完全に閉鎖されるまでは大勢の人たちは時間をかけ電車通過を待ち、閉鎖の柵の間を抜けて線路を渡り、行き来しました。 (「荻窪界隈の歴史散歩 東南コース/ (平成23年5月10日) | 荻窪百点.com」より)]
カメラ南東方向に大踏切がありました。