蓮華寺

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蓮華寺
[天沼山蓮華寺は、真言宗室生寺派に属する寺で、開山は真長和尚と伝えられます。本尊如意輪観世音菩薩(如意輪蓮華峰王)です。当寺開創の詳細は明らかではありませんが、墓石には板倉周防守から寺地を寄進されたいう記録もあり、開創は室町時代と伝えられています。
寺伝によれば天和2年(1682)に寂した中興開山鏡薫和尚の時代に、寺門は大いに興隆したといわれています。
昭和37年に建立された本堂には不動明王坐像と昭和19年出羽湯殿山から請来した不動明王の立像も安置されています。この不動尊は室町時代に作られたもので、「厄除不動」の名で呼ばれて厚く信仰されています。
当寺には文化財も多く、天沼村関係古文書が所蔵されているほか、阿弥陀馬頭観音石像・宝篋印塔等が境内に安置されています。
なお、旧本堂は杉並第五小学校の前身である桃野尋常高等小学校の分教場に使用され、多くの人々に親しまれました。堂前にその記念の石碑があります。
昭和55年2月20日  (「17 蓮華寺 【寺院】(本天沼2丁目17番8号)|杉並区公式ホームページ」より)]

蓮華寺|杉並区本天沼にある真言宗室生寺派寺院 – 猫の足あと

[明治四十(1907)年、それまで四年生だった義務教育尋常科の六年間に延長になった。就学率は日露戦争後の富国強兵策を反映して高まる一方で、それは大正にはいっても変わらなかった。
 学童の増加に収容しきれなくなった桃野小では、天沼蓮華寺の一室(三間半×一間半)を借り受けて、大正六(1917)年六月一日から文教場を開設した。正式名称は杉並村桃野尋常高等小学校天沼分教場といい、天沼に住む尋常科一・二年生が通う教室だった。天沼には昔から寺子屋はなかったから、これが天沼に最初にできた教育施設で、杉並第五小学校の創立記念日六月一日は、蓮華寺に分教場を開設された日に因っている。桃野小学校を本校と呼び、三年生以上はこれまで通り阿佐ヶ谷の本校へ通った。
 蓮華寺の教室を体験したのは明治四十三(1910)年から大正七(1918)年までに生まれて、一・二年生のときに天沼に住んだ子供たちである。
当時の住職は元世尊院住職の菅錦堂さんで、その後、大正十四(1925)年に下村聖栄(※室生寺二代管長)さんが住職になり、戦後、網代智等(※2014年 1月15日 死去 享年92歳)さんが跡を継がれた。現在、網代智等さんは女人高野で名高い奈良県室生寺の管長になられ、蓮華寺住職を兼務しておられる。
 蓮華寺時代の思い出として、森田弥一さん(第一期)は、遠足で中野駅から電車で行ったことがあったと語っておられる。中野駅集合なので、麹町まで(千代田区)まで下肥を汲みに出かける父親の大八車に便乗していった。大八車には肥えたごが前に四つ、後ろに四つ積まれていた、帰りも待ち合わせて中野駅からその車に乗ってきたが、今度は肥だこの中がはねてピチャンピチャン音がする。それが何の苦にもならなかったのは、子ども心に下肥運びが農家の大事な仕事であることを承知していたからだろう。
 大正にはいって油糟魚粉など金肥を畑にまくようになったが、主力はやはり東京の町家から大八車で運んでくる人糞だった。当時は農家が汲み取り代金を支払っていた。農家が料金を受ける側になったのは、震災以後である。
 大八車は、農家の必需用具であった。季節の”せんざいもの”(前栽物)である新鮮なキュウリ・ナス・スイカ・カボチャ・モミ(間引き)大根・トウモロコシ・イモ類なども大八車に満載して、築地市場・東洋市場(淀橋)へ運んだ。
 築地や神田へ行くときは夜中の二時ごろに天沼をでた。荷が重いうえに道中は坂が多いので、子どももついていって車の後押しをした。そのために学校を休むのは、先生も多めに見たようである。市場の帰りには、牛飯(八銭)、かけそば(三銭)、今川焼き(一銭)、アンパン(二銭)、大福(八個十銭)などを食べさせてもらうのが楽しみだったと、森田金蔵さんは述懐しておられたそうだ。  (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 大正時代」より)]

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蓮華寺総門前のカメラです。

蓮華寺弁財天堂前のカメラです。

カメラ北方向が蓮華寺山門で、カメラ南方向に総門があります。

蓮華寺本堂前のカメラで、本堂左に天沼分教場跡碑があります。

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