マーカーは薬王院薬師堂です。
薬王院薬師堂
[この薬師堂は、かつては薬師如来像を本尊とする寺で、玉光山薬王院と呼ばれていました。開創は元禄時代以前といわれ、開山は海光和尚と伝えられています。
薬王院は開山当初より今川氏の保護をうけ、元禄13年(1700)に今川範高から土地を寄進され、享保4年(1719)に至って今川氏の祈願所となりました。ついで延享4年(1747)頃に今川氏の菩提寺である観泉寺の末寺となり、明治維新の際、観泉寺に合併され、以後同寺の境外仏堂として今日に至っています。
『新編武蔵風土記稿』は、江戸時代の薬王院について「地頭除七段、小名寺分にあり、玉光山と号す、前寺の末、客殿七間に四間半南向、本尊は坐像の薬師にて長さ八寸五分」と記しています。
明治15年、境内の一隅に不動明王を祀った不動堂が設けられました。本尊は寄木造りの坐像で、近在の人々は「お不動様」と呼んで信仰し、3年後の同18年には信徒によって成田山成開講がつくられました。そして、近年まで行者の道場として栄えていたといわれています。
また、境内には寛文9年(1669)念仏講中によって奉納された地蔵菩薩、寛政5年(1793)銘の庚申塔などがあります。
なお、薬師堂には明治8年4月に現在の区立桃井第一小学校の前身である桃園学校第二番分校がおかれ、杉並近代教育の歴史に記念すべき足跡をしるしています。
昭和57年2月10日 (「41 薬王院 【寺院】(桃井2丁目4番2号)|杉並区公式ホームページ」より)]
[明治八(1875)年に、中野村の宝仙寺を仮校舎として第六小学区第九番公立桃園学校(現中野区立桃園第一小学校の前身)が開校した。しかし、杉並区域からは遠すぎるので、桃園学校一番分校が馬橋村の清見寺(通学範囲は馬橋・高円寺・阿佐ヶ谷・天沼・田端・成宗村)、二番分校が上井草村の薬王院薬師堂(上井草・下井草・上荻窪・下荻窪村)に設置された。このとき杉並区域では、ほかに郊西学校(五日市街道沿いの地区 ※大宮前新田、慈宏寺内)と高泉学校(甲州街道沿いの地区 ※上高井戸村、医王寺内)が開校している。そして翌九(1876)年に、桃園学校一番分校は第三中学区第二十五番公立桃野小学校、二番分校は第二十六番公立桃井学校として、それぞれ独立した。現在の杉並第一小学校、桃井第一小学校の前身である。 (「天沼8町会 – 明治時代」より)]
杉並区立高井戸小学校
[1875年10月8日 – 高泉学校(上高井戸村、医王寺内)・郊西学校(大宮前新田、慈宏寺内)として認可。
1891年6月19日 – 高泉学校と郊西学校が合併し、東京府東多摩郡高井戸尋常小学校として新たに発足。 (wikipedia・杉並区立高井戸小学校より)]
カメラ北北東方向が薬王院薬師堂です。
薬王院薬師堂前のカメラです。