西光寺

マーカーは西光寺です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で「上石原」の下に描かれる卍が西光寺になります。

西光寺
[西光寺(さいこうじ)とは東京都調布市上石原にある天台宗の寺院の事である。山名は長谷山聖天院。本尊阿弥陀如来三尊三十三応現身像(寺は「観音三十三身像」と表記)が有名である。
西光寺の阿修羅身像は本来弓と矢を持つ二臂が空をささえる表現を取っている。この阿修羅身像は日月を持っているため四臂が空に向かって掌を広げている(残りの二臂は合掌している)。すぐれた表現美のため調布市ホームページではスケッチ画ながらも三十三応現身像の代表として載せている。なお、西光寺の三十三応現身像は「江戸の彫刻の中でも最高級の彫技がみられる」という。旗本の長谷川氏が「天下御泰平国土御安全」のために、元禄11年(1698年)に寄進したという。  (wikipedia・西光寺_(調布市)より)]

[西光寺仁王門一棟
この門は、市内に残る唯一の仁王門で、年代も十八世紀初頭と特定できる貴重な建物である。正面両脇間に仁王像を安置し、また楼上に銅鐘を釣るので、仁王門でもあり鐘楼門ともいう。
寺の記録によると、西光寺中興の大僧都弁雄が宝永年間(一七〇四〜一〇)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が銘記されているので、この時の再建であることが明らかである。(調布市教育委員会掲示より)
新撰組局長近藤勇
近藤勇天保五年(一八三四年)武蔵国多磨郡上石原村(現調布市野水一-六)宮川久次郎の三男として生まれ、幼名勝五郎、幼い頃より武芸に親しみ、嘉永元年天然理心流近藤周助に入門、翌二年近藤家の養子となり、文久元年天然理心流宗家四代目を襲名、府中六所宮(大國魂神社)で襲名披露の野試合を行った。
文久三年、幕府が組織した浪士隊に応募、将軍上洛の警護のため京都に行き会津藩お預かり新撰組を結成、局長として洛中の治安の維持にあたる。中でも元治元年六月浪士達が画策した京都の大惨事を未然に防いだ功績で、幕府と朝廷から恩賞を受けた池田屋事件での活躍はあまりにも有名である。
然しながら世情の移り変わり激しく、慶応三年将軍徳川慶喜大政を奉還し、翌四年の鳥羽伏見の戦いに敗れたので、傷心のうちに幕艦富士山丸江戸に帰った。
その年三月、近藤勇は将軍慶喜から許された大名格(若年寄格)として大久保剛と改名、甲陽鎮撫隊を編成し、甲州街道甲府に向けて出陣した。途中思い出多い故郷上石原では、長棒引戸の駕籠を降り小姓を従えて、遥か氏神様の上石原若宮八幡宮に向かって戦勝を祈願して西光寺境内で休息、門前の名主中村勘六家で歓待をうけたのち、多くの村人に見送られながら出立し村境まで歩いた。天下に知られた英雄がふるさとへ錦を飾ることはできたが、戦況利あらず勝沼の柏尾山の戦いに敗れ慶応四年四月下総流山(千葉県流山市)で大久保大和として西軍に出頭、同月二十五日江戸板橋で刑死、時に僅か三十五歳波瀾万丈の生涯を閉じた。
会津藩主、松平容保は「貫天院殿純忠誠義大居士」の法号を贈りその功績を称えている。(近藤勇座像建立委員会掲示より)  (「西光寺|調布市上石原にある天台宗寺院 – 猫の足あと」より)]

天台宗東京教区 長谷山聖天院西光寺

西光寺 – Google Map 画像リンク」、「近藤勇座像 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向が西光寺山門です。

西光寺山門前のストリートビューです。カメラ南南東方向に近藤勇座像があります。

西光寺鐘楼門前のストリートビューです。

西光寺本堂前のストリートビューです。