観音おんだし

マーカーは観音おんだしです。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

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1896~1909年地図で、荻窪駅左上の南西方向に下がる道が観音通り(白山通り)です。

東京府15区8郡時代の町村区分図豊多摩郡杉並町・番地入最新杉並町全図(昭和6年)」[地図左上・おぎくぼ駅上方向、中谷戸と四面道の字界(赤破線)が描かれています。その字界に沿っている道が教会通りで、教会通りの青梅街道口左下に観音おんだし(白山通り)がある。青梅街道の初期の拡張計画が緑の破線で印されています。地番「字中谷戸149」の緑破線内が長野屋で、後にその北側に第一勧業銀行が出来たようです。]

観音おんだし
[カラー舗装化の一番乗りをはたした白山通り商店街は、大きな商店街の中では創立が新しい。しかし、この通りの歴史は古く、「観音通り」といわれたこともあった。古寺である光明院の創設とともにできた荻窪のもっとも古い道で、青梅街道ができた時、この道の出会いを”観音おんだし”といい、光明院までを「観音みち」その後「観音通り」と言ったことによる。”おんだし”とは、大きな道との出会いの呼名で使われるが、青梅街道に押し出した道が訛って”おんだし”になったのである。光明院は、和同元年(708年)に開基された真言宗の寺で、別名”荻寺”と呼ばれた。荻窪の地名は、この寺によって生まれたという。創建当時は、七堂伽藍の格式をもち、近隣近在からお参りする人が絶えなかったという。「観音みち」は、光明院へ通う道であった。  (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – わが町、荻窪」より)]

[荻窪白山神社は、荻窪駅北口線路沿いの「観音押出し(かんのんおんだし)」にあります。
「押出し」とは、坂道での荷車後押し業をいい、荻窪界隈には、この「押出し」という地名がいくつか残っています。
環八沿いの萩寺「光明院」からタウンセブンで青梅街道に出るまでの道を「観音押出し」といい、荻窪白山神社もこの観音押出し沿いにあります。  (「荻窪白山神社 秋のお祭りです~荻窪界隈はこれから秋祭りが続きます …」より)]

[私が引っ越して来た頃は、今の荻窪駅の手前、映画館通り(※白山通り)へゆく右の曲り角に古めかしい蹄鉄屋があった。前方に遠く富士が見えた。そこに入っていく道は、線路の方に通じる野良道だが、地元の人はこういう細道を山道と呼んだ。森や林を「山」といったからだろう。
 この蹄鉄屋は広い土間の一つきりのような藁屋根造りの家で、いつ見ても一匹か二匹の駄馬が家の前に繋がれていた。馬子たちは蹄鉄屋が沓を打ち終わるまで、その筋向いの長野屋という一膳飯屋で、弁当をつかうか焼酎を飲むかしながら時間を費やしていた。
 その頃の青梅街道は道幅が六間で、一面に草が茂り、大八車の通る幅だけ砂利が撒いてあったそうだ。当時の蹄鉄屋と一膳飯屋は、今のガソリンスタンドとドライブインのような関係であったろう。
 長野屋も馬子たちの溜まり場のようなもので、蹄鉄屋と持ちつ持たれつでやっていたのではないかと思われる。この店も蹄鉄屋と同じように古びた藁屋根の家で、荻窪駅北口の弁天通り(現在の教会通り)の入口左にあった。青梅街道は昭和に入って二度にわたって改修されたので、正確な位置はわからないが、元長野屋の裏口あたりのところが、現在の第一勧業銀行(※現みずほ銀行)の正面入り口になっているようだ。

荻窪の天沼八幡様前に、長谷川弥次郎という鳶の長老がいる。この人は荻窪の土地っ子で、敗戦の年まで天沼の地主宇田川さんの小作であったという。
弥次郎さんは昭和初期のころまで、宇田川の荻窪田圃で稲をつくり、天沼の畑で大根野菜をつくっていた。稲は陸稲もつくり、後作に麦をつくったから忙しかった。大根野菜を出荷するときには、その前日、天沼八幡様前の小川(灌漑用の千川用水※桃園川)で洗い、朝荷と言って夕方から積荷に取りかかり、真夜中に東京の朝市場へ向けて出かけて行く。
 これは弥次郎さんばかりでなく、この辺の農家で朝市場に行くものは、みんなこの通り夜業で仕度をして出荷した。大根のほかに、白菜、牛蒡、人参、からし菜、山椒の芽など、季節に応じて出した。淀橋の東洋市場へ行くのもあり、早稲田や諏訪の森のヤッチャ場へ行くのもあり、京橋のヤッチャ場へ行くのもある。出発は殆どみんな真夜中だから、家族の者が道明かりの提灯を持ってついて行く。中野坂上と鳴子坂の袂のところの立ちん坊は、元は一回五厘から一銭で車の後押しをしていたが、第一次欧州戦争後は一回二銭から三銭ぐらい押し賃を取るようになった。
 淀橋から先の新宿大宗寺あたりまで行けば、後は下り坂になるし白々と夜が明ける。家族の者は、新宿か四谷の駅から提灯を持って帰ってくる。電車で帰れば新宿から荻窪まで片道十銭だが、歩いて帰れば女の足で二時間かかる。提灯に点す蝋燭は白蝋と黄蝋とあって、黄蝋は火持ちがよくて一本二銭であった。帰りの車は朝荷のように重くはないが、金肥を積んだり人糞を汲んだ肥桶を載せたりすると、坂を越えるときまた立ちん坊に後押しさせなくてはならぬ。荻窪のケヤキの木の枯葉と人糞の堆肥は農家の守神のように役に立つが、中身のある肥桶の重さは実際に運んだ人にしかわからない。  (「井伏鱒二著 – 荻窪風土記」抜粋)]

カメラ南西方向が「観音おんだし」(白山通り)で、右角に蹄鉄屋があったようです。