マーカーは質屋坂標柱前カメラ位置です。
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
質屋坂(旧志木街道)
[前原町3-40と3-41の間を南西に下る。
府中から志木・所沢に行くための商人道で、旧志木街道の一部だった。この坂の中腹に幕末から明治のかけて星野家が質屋を営んでいた。また、途中から鎌形に曲がっているところから「鎌坂」ともいわれた。『続小金井風土記』 【坂標】 (「小金井市の坂-1・府中市の坂-4: 坂道散歩」より)]
[小金井市は国分寺崖線で坂上と坂下に分けられていて、行き来には坂道を上り下りしなければなりません。だから江戸時代の昔から人一人がやっと通れるような小さな農道を含めて沢山の坂道がありました。
それらの中で比較的大きな坂道(当時の幹線道路)の一つがこの「質屋坂」です。江戸時代のこの付近の主要道路の一つで、現在の埼玉県志木や所沢方面から清瀬を経て府中に至る志木街道(今の小金井街道へと発展)がこの質屋坂で国分寺崖線を下っていました。現在は石畳で緩やかな坂道ですが、幅がそれほど広くはないので車は下り方向の一方通行です。
江戸時代にこの付近の名主を務めた星野家がこの道路に面して質屋を営んでいたことにより「質屋坂」と呼ばれるようになったとのことです。
この坂を登り切ったところが現在の前原坂上交差点、昔は「六道の辻」と云われて六本の道が交差する場所だったようです。つまり連雀通りと志木街道が交差し、さらに金蔵院に下る道や小さな農道が交差していたとのことです。今も交通量の多いところですが、江戸の昔から小金井の中心地だったようです。 (「Vol.213 小金井の坂 No.12 質屋坂 | まろん通信」より)]
「【国分寺崖線・坂とはけの道めぐり】こがねいてくてく … – 小金井市のイ」
カメラ西北西方向が質屋坂通りです。
カメラ南西方向・旧家門右に標柱があります。