都電杉並線

マーカーは都電杉並線停車場跡です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

戦前の東京23区が見渡せる空中写真を地理院地図上で初公開」 – 「荻窪駅周辺」(1961年~1969年写真の青梅街道センターに都電杉並線がとらえられています。)

Goo 地図(昭和38年[1963年]航空写真)」(荻窪駅東方向に大踏切が捉えられています。大踏切の廃止は昭和41年[1966年]4月6日)

都電杉並線
[大正十年(1921)年、青梅街道西武軌道会社の電車が登場した。
 明治四十三年七月に青梅街道を蒸気機関車で試運転をおこなったのが、その始まりであった。当時の交通機関は、鉄道馬車が全盛を極め、ようやく蒸気機関車が走りはじめた頃で、電気で車が走ることは夢のような話だった。乗ると感電して真っ黒になるなどと真顔で心配するお年寄りもいた。
 電車が走ったのは、まず、淀橋(成子坂)と荻窪の六キロで西武線として開通した。次いで、大正十二年に淀橋と新宿間の一・三キロが開通すると新宿線と呼ばれるようにんった。JR中央線(当時は省線といった)の新宿駅東口の大ガードの際を起点として青梅街道を成子坂、鍋屋横丁、中野、馬橋(高円寺)、阿佐ヶ谷と各停車場があって、荻窪が終点であった。鍋屋横丁までは複線で、後は荻窪までは単線であった。完成し開通したとはいえ、利用客は少なく、営業というにはほど遠いものであった。これが、後の都電・杉並線である。
 杉並区の荻窪停留場は、この旧青梅街道の大踏切りの新宿側手前にあった。ここには停車場の前には荻窪で初めての銀行、三菱銀行荻窪支店の前身の中野銀行があり、郵便局、電報電話局や商店も並んだ荻窪の中心街であった。
 電車が走っても青梅街道は、まだ荷馬車などの行き交う街道であった。終点の荻窪停車場前と杉並区役所辺りには十五、六個の桶を並べた馬の水飲み場があって、せまい青梅街道では、馬が水を飲みはじまると電車はストップしなければならなかった。乗客もなれたもので、窓からその様子を見ているという、誠にのんびりしたものだった。
 青梅街道は、その時わずか六間(約十メートル)たらずの砂利道で、風の日には黄塵をまきあげ、雨天には泥水が流れるというぐあいで、雨の日には、電車は泥水をあびて走っていた。
 新宿線は、昭和十七年(1942年)に東京市に買い取られて市電杉並線となっていたが、戦後、自動車、バス、電車ですら交通機関の復興がままならなかったなかで、この杉並線が華々しぐ活躍することになる。戦後の物資不足、ことに食糧難で人々は近郊の農村へ買い出しに出かけたが、杉並線は、ヤミ米、イモなどを運ぶ人たちで車両は文字通り鈴なりになった。また、その後、世の中が落ち着いついてくると、戦災にあった人々が荻窪、武蔵野地区に移り住むようになり、仕事に通勤または通学にと利用され、これらのことが重なって、都電・杉並線は東京都の収入源のドル箱となった。
 杉並線の全盛を極めたのはその頃で、昭和二十四年の乗客数を見ると一日四万人の利用があり、六十万円もの収入を上げている。他の系統の三倍という都電で群を抜いて第一位であった。
 世の中が落ち着き、生活水準が上がると乗用車が道にあふれ、経済発展による貨物車も増え、特に青梅街道は混雑を極めた。都電では、新宿-荻窪間では今までの三倍もの時間がかかった。
 もともと本数が少ないうえに、ますます増える車にダイヤ通りの運行ができなくなった都バスは、利用者が減った。そして消えた。競合する都バスがなくなって、都営杉並線の一人舞台になったが、時代の流れは、徐々にではあったが都電は必要としなくなった。
 交通問題は確実に杉並線を窮地に追いやった。荻窪の停車場は狭い道の中央にあり、さらに、終点であるため折り返し電車が待機するため、交通障害として旧青梅街道はとかく問題にされていた。軌道電車が自動車のじゃまだとされて、電車とバスを合体させたトロリーバスが一時的に走ったが、それも消えていった。
 都電・杉並線は、それでも路線の延長をもって生き残りにかけた。すなわち、新宿中央線大ガード近くまで築地から来ていた築地線と杉並線をドッキングさせて起死回生を図ろうと計画されたのである。しかし、その計画は流れた。築地線など都電は全て軌道幅は同じだが、後から買い上げた杉並線だけは軌道幅が狭く、軌道幅を同じにしてつなげないことが根本的理由であった。
 杉並線は、バス路線も多く広域から人を集める駅北口へ、天沼跨線橋で中央線を越えて広い青梅街道を下り、東光ストアー(※東急ストア→キンカ堂オリンピック→解体後・安富産業の複合施設「ルーフ荻窪」)前に停車場を移す(※昭和31年・1956年)など孤軍奮闘してきたが、力折れ矢尽きて、やがて消えていく運命をたどることになる。
 決定的要因は、昭和三十七(1962)年一月、営団地下鉄丸の内線が荻窪まで延長して営業を始めたことにある。青梅街道を都電と並行し、しかもスピードの速い地下鉄ができてからは都電の利用客は急速に減り、それまで四万人あったものが一万七、八千人になってしまっい、ついに赤字路線に転落してしまった。
 荻窪の発展をそれなりに支えてきた都電杉並線は、その使命を終わり、昭和三十八(1963)年十二月、都電廃止第一号として五十二年間の歴史を閉じた。  (「天沼8町会:天沼の歴史 天沼の歴史を古代から紐解く – 昭和時代・青梅街道の交通の今昔」より)]

「南口駅前通りに都電杉並線が走っていまいした(都電14系統) | 荻窪東町会」、「地方私鉄 1960年代の回想: 都電杉並線 最後の日」、「馬橋南自治会 写真広場 メモリアル 都電廃線の日 昭和38年11月30日

カメラ北北東方向が複合施設「ルーフ荻窪」で、カメラ位置がかってあった都電杉並線停車場跡です。

カメラ位置は旧青梅街道・大踏切南側でカメラ東北東方向に当初の都電杉並線停車場がありました。