野沢水車案内板

マーカーは野沢水車案内板です。

野沢水車案内板
[水車橋には手作り案内板
下馬6丁目と野沢3丁目の境に、水車橋というバス停があります。 ここは昔、川だったのでしょうか?
案内板によると、ここにはかつて品川用水が流れており、米や麦を精製する水車があった。それが今もバス停の名前に残っているのです。
…にしても、この案内板、個人が作成したもののようで、すごく丁寧だし、味もあるし、素晴らしいです。(画像リンク)  (「尊い東京の姿: 午年なので上馬・下馬地区へ~自由すぎる掲示板など~」より)]

[明治時代の末期になると品川用水路の各村は都市化が進み宅地が増えたため、品川用水は農業用水としての需要が減り、次第に工業用水、洗い場用水、消防用水として利用されるようになる。このため管理組合は水使用料を徴収して、組合員以外の村の人々にも水の使用を許可した。
流水が水車用にされたり、水路の土手が宅地に転用されたところもある。
世田谷区野沢にあった「野沢水車」とよばれる水車は、直径 5mもある大きなのもあった。明治15年に設置され大正時代の終わりまで使用された。  (「品川用水における水利施設 – 公益財団法人とうきゅう環境財団」より)]

[品川用水の水は品川領以外の上流部では原則的に利用が認められていませんでしたが、用水維持費用の財源として用水利用料を徴収できる水車の設置を認めることになったようです。その代わり、水不足で下流の水量が減少した場合は水車の操業を休止することが条件になっていました(品川用水普通水利組合『品川用水沿革史』、昭和18年)。
 この野沢水車(野沢3‐10)は明治14年に谷岡慶治氏(のちの駒沢村初代村長)が設置を出願して認可され、明治16年に完成したもので、直径一丈六尺(4.8m)の巨大な水車は建物内にありました。用水の水を300メートルほど上流で堰を作って導水路に引き込み、高台上に流して、そこからの落水で水車を回したのです。水車というと、のどかなイメージがありますが、ここの水車は発電できるほど猛烈な勢いで回転し、杵のつき音も水音も凄まじいものだったということです。
現在は水車小屋も水車橋も存在しませんが、水車跡の碑と解説板があります。また、背後の高台には日蓮宗の野沢山正徳寺があり、水神が祀られています。また水車の歯車や石臼などが保存され、境内には馬頭観音庚申塔二十三夜塔などが集められています。  (「世田谷の古道をゆく – 品川道 駒沢~品川」より)]

カメラ北方向に野沢水車案内板があります。