鎌倉橋

マーカーは鎌倉橋です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
地図を見ると、1896~1909年の地図では神田上水上方向に鎌倉橋坂上、1917~1924年の地図では神田上水に鎌倉橋と記述されています。

鎌倉橋
[神田川にかかるこの鎌倉橋について、『武蔵名勝図会』には、「上高井戸の界にあり。古えの鎌倉街道にて……いまは農夫、樵者の往来道となりて、野径の如し」とあります。
鎌倉街道は、東国御家人鎌倉を結ぶ道で、鎌倉室町時代に繁栄しましたが、江戸時代以降、次第に衰え、後半期には前述の「野径の如し」といわれるように、一部分を残すだけとなりました。
また、この付近には、鎌倉時代に陣屋が作られ、後に大田道灌の支配地になってからは、家臣某が任に当っていた、という伝承が残されています。
橋名の由来については、同書多摩郡之部高井戸宿の条に「鎌倉街道ゆえ、鎌倉橋という」と記されていることから、鎌倉橋と名付けられたという説があり、また一説には、長禄元年(1457)、大田道灌が江戸城を築く際、工事の安全を願い、家臣に命じて下高井戸八幡神社を建立させ、武士の信仰の厚い鎌倉八幡宮の神霊を勧請したおりに、鎮座地に近いこの橋を鎌倉橋と名付けたと言われています。
また、延宝2年(1674)4月の『武州多摩郡下高井戸村御縄打帳』には、「鎌倉橋北側」「鎌倉橋南側」という小字名がみえています。このことからみても、江戸時代初期には、すでに“鎌倉橋”という字名がついていたと言えるでしょう。
なお、『豊多摩郡誌』は、大正初期の鎌倉橋について、「木造、延長三間、幅員一間」と当時の様子を伝えています。
平成12年3月  (「63 鎌倉橋 【橋】(下高井戸4丁目43番)|杉並区公式ホームページ」より)]

鎌倉橋 – Google Map 画像リンク

カメラ北東方向に「鎌倉街道碑」があり、カメラ北方向が鎌倉橋にます。