阿佐谷北五丁目42番所在 民間信仰石造物

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今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

阿佐谷北五丁目42番所在 民間信仰石造物
[この民間信仰石造物群は、現在早稲田通りとなっている阿佐ヶ谷村から井草方面への道と、天沼方面に通じる道の分岐点に位置しており、阿佐ヶ谷の庚申堂と呼ばれる内に、右から、正徳5(1715)年銘阿弥陀如来立像、享保7(1722)年銘地蔵菩薩像、元禄10(1697)年銘庚申塔、宝永7(1710)年銘地蔵菩薩像の順で安置されている。また、登録対象外であるが、左端前寄りに年代未詳の自然石の「供養塔」が安置されており、右端前方に像容・材質・年代・主旨未詳の小像がある。
これらの石造物群は今日でも近隣の住民の信仰の対象として大切に取り扱われており、清掃され生花が飾られている。この内、紀年銘のある4基(登録対象物件)は江戸時代中期初頭の元禄10(1697)年から享保7(1722)年の25年間に集中しており、この時期の阿佐ヶ谷村の住民の信仰を知る上で貴重な史料といえよう。右の4基のうちの2基の願主に村主六左衛門の名があり、また1基には同一人物と思われる「六左衛門」の名がある。これによって、元禄から正徳年間にかけて村主六左衛門が民間信仰の講の中心人物であったことがわかる。このように、近世中期初頭から地縁・血縁によって民間信仰が継承されていることを証明できる貴重な例となっている。この民間信仰石造物は、近世中期における阿佐ヶ谷村のの活動を示し、村の情勢を物語る重要な史料であり、近世中期初頭における阿佐ヶ谷村の民間信仰や文化・社会組織などを物語る資料として重要である。  (「平成20年度 指定登録文化財|杉並区公式ホームページ」より)]

[ここに建立されている石塔は、元禄10年(1697)銘の庚申塔及び宝永7年(1710)・享保7年(1722)銘の地蔵塔並びに、正徳5年(1715)銘の阿弥陀塔計四基があります。
 庚申信仰は、「長生きするためには庚申の夜は身を慎しみ、諸善を行い、徹夜をすべきである」という中国の道教説から始まったようです。それが日本に伝わってからは、中世以降仏教や神道の信仰と習合して庶民の間にひろまりました。江戸時代には、本尊青面金剛とし、不見、不聞、不言の三猿が彫られるようになり、ここに見られるような庚申塔の建立が盛んになりました。
 地蔵菩薩の信仰は、仏教の民衆化とともに宗派を超えてひろまりました。地蔵菩薩は、冥界現実界の境に立って人々を守護するということから、村や道の境や村の安全を守護する菩薩とされ、村の路傍又は辻に多くの建立されています。
 阿弥陀如来は西方極楽世界の本尊とされ、他力往生の誓願をたて、この仏を信じる者は、ただ念仏さえ唱えれば難行苦行を積むまでもなく、仏が大慈の光明を照らし、お迎えくださるとされています。
 これらの石塔は、この辺りが武州多摩郡阿佐谷村字東原と称された頃、この地域の講中の人々によって悪病退散、村民安全などを祈願して建立されたものといわれてます。現在でも10月23日には、旧阿佐谷村の人々が中心になって祭礼が行われています。
 なお、石塔の前の道は、かつての所沢道、左側の道は天沼から青梅街道に通じる旧道で、この附近は村の中心地でした。
 私たちもこのような文化財を、一層大切に守りつづけたいものです。
   昭和55年2月21日  (「25 民間信仰石塔(阿佐谷北五丁目) 【信仰】(阿佐谷北5丁目42 … 」より)]

民間信仰石塔 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が阿佐ヶ谷庚申堂です。

阿佐谷北五丁目42番所在 民間信仰石造物(Google Map 画像)

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阿佐谷北五丁目42番所在 民間信仰石造物案内板(Google Map 画像)

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