駄倉橋の親柱と説明板

マーカーは駄倉橋の親柱と説明板です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「岩戸」上方向に駄倉橋が描かれています。しかし、この場所は現在の一の橋交差点になると思われ、駄倉橋と言われる個所は、この場所から左側の橋と思われます。これら橋名の変遷は昭和初年、農村救済事業で用水沿いに道路を新設したことと関係があるかもしれません。]

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

駄倉橋の親柱と説明板
[六郷さくら通りに面したエコルマ3の前に残る駄倉橋の親柱と説明板(中和泉1-1)。かつては六郷用水が流れ、レンガ造りの橋が架かっていた。  (「古墳や史跡が歴史伝える – 狛江市役所」より)]

駄倉橋石柱
[かつて六郷用水には、田中橋(Google Maps)、駄倉橋、北谷橋、岩戸橋、一の橋、二の橋(Google Maps)などの橋が架けられていました。中和泉1-1-1先にある駄倉橋石柱は、このうちの駄倉橋の跡地を示すものです。
 六郷用水は、徳川家康の命により慶長2年(1597年)から慶長16年(1611年)にかけて、小泉次大夫吉次によって作られた全長約23キロメートルに及ぶ灌漑(かんがい)用水路です。この用水路は、多摩川の水を五本松上流で取り入れ、市役所の裏で野川と合流させて、世田谷区を経て、大田区まで流れていました。市内でも3つの堀(猪方用水、内北谷用水、岩戸用水)に水が分けられ、和泉村、猪方村、岩戸村などの水田を長い間潤しました。
 ここで、推薦いただいた方のコメントを紹介します。
 「多摩川から水を取り入れ、現在の六郷さくら通りからいちょう通りへと流れ、灌漑(かんがい)用水として活用されました。石柱は生活にとって大切な用水がそこにあったことをしのぶモニュメントになっています」  (「狛江のまち―魅力百選(60)(1143号9面) – 狛江市役所」より)]

「市街化で次々と姿消す橋」

カメラ北北西方向に駄倉橋の親柱と説明板があります。