マーカーは高井戸一里塚跡案内板です。
高井戸一里塚跡
[江戸時代、五街道のひとつであった甲州道中(街道)は、江戸日本橋を起点として、内藤新宿、高井戸、府中、八王子、甲府を経て上諏訪に至り、つぎの下諏訪で中山道に合するようになっていました。
この街道を利用した諸大名は、信州高嶋藩、同高遠藩、同飯田藩の3藩でした。また甲府には、江戸幕府の甲府勤番はおり、幕府諸役人の往来もありました。
この場所の前方、高速道路下に、日本橋から数えて4里目(約16キロメートル)を示す「一里塚」がありました。
当時の旅人はこの「一里塚」を見て、道程を知り、駄賃などの支払いをしました。
塚は5間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)を基準として土を盛り上げて築き、榎が植えてありました。
昭和54年2月1日 (「12 甲州道中一里塚跡 【道】(下高井戸1丁目41番12号)|杉並区公式 …」より)]
高井戸
[高井戸宿(たかいどしゅく)は、かつて甲州街道にあった上高井戸宿および下高井戸宿の合宿。現在の杉並区高井戸にあった。
概要
通行大名が少なく脇本陣は置かれなかった。
当初は、甲州街道の一番目の宿場であったが、後に内藤新宿が設置され、次第に素通りするものが多くなった。
周辺住民は農業を主としており、一宿で継ぎ立てを勤められず、月初から15日までを下高井戸宿、16日から月末までを上高井戸宿が勤める合宿としていた。
助郷村は、久我山村、和泉村、松庵村、田端村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年))、成宗村(1751年(宝暦元年)-1767年(明和4年)、久我山村代助郷)。
下高井戸宿
日本橋から4里。宗源寺(下高井戸4-2-3)の左隣の「富よし」に本陣が置かれた。本陣前が高札場、本陣向かい側の少し日本橋寄りが問屋(細淵家)跡となる。
上高井戸宿
日本橋から4里12町40間。上高井戸一丁目信号(環八通りとの交点)の北東角にあった並木氏の「武蔵屋」に本陣が置かれた。問屋は篠弥惣治。 (wikipedia・高井戸宿より)]
カメラ南南西方向に高井戸一里塚跡案内板があります。(2024年案内板更新)
高井戸一里塚跡案内板(Google Map 画像)