マーカーは上祖師谷神明社です。
上祖師谷神明社
[浅葱色をした社殿は昭和41年に建てられたもの。江戸時代から上祖師谷の鎮守だったと思われます。神明社の脇を通る道は、昔「滝坂道」といわれた街道で、現在も交通量は多い。時代の激しい移り変わりをじっと見つめてきたお社です。(せたがや百景公式紹介文の引用)
上祖師谷の南には祖師谷がありますが、かつては一つの村でした。祖師谷村が上下に分かれたのは元禄八年(1695年)の検地の時で、元禄十一年以降は幕末まで両祖師谷とも天領でした。祖師谷の名前は昔この地に地福寺があり、この寺に祖師堂があった事に因んでいるのではと言われています。
明治、大正と時代が進むと、村の北に京王線、村の南に小田急線が開通しますが、どちらも駅から離れていることもあって人口が急激に増えることはありませんでした。村は農業従事者が多く、仙川を中心に田や畑が広がっているような純農村地帯でした。
戦後間もない頃の航空写真を見ると、神明社付近の辺り一帯は田んぼと畑しかないような風景なのでビックリしてしまいます。上祖師谷の人口が増えたのは戦後になってからで、どんどんと田畑が埋められ、住宅が建ち並んでいくようになります。
上祖師谷を横切っているのが滝坂道です。滝坂道は中世に江戸と府中を結ぶ主要街道でしたが、江戸時代になるとすぐに甲州街道が整備され、裏街道となってしまいます。
その滝坂道が仙川と交わる場所にかかっている橋は宮下橋と言います。その名前の通り宮の下にある橋で、この橋のすぐそばの丘の上に神明社が鎮座しています。神社の道路沿いには滝坂道を見守るように石橋供養塔(1767年)があります。この供養塔は240年程前に橋の供養をしたときのものと言われています。
神明社が上祖師谷村の古くからの氏神様で、創建、歴史などの詳細はわかっていませんが、元禄年間(1688~1703年)に建立されたのではと言われています。
現在の社殿は、昭和42年に再建されたコンクリート造りの社殿で、2008年に境内の整備とともに補修されました。百景の文章では浅葱色(あさぎいろ=ごく薄い藍色)となっていますが、改修によって薄いピンク色になっていました。特に浅葱色にこだわりはなかったようです。 (「せたがや百景 No.50 上祖師谷神明社 <世田谷散策記>」より)]
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「上祖師谷」左方向に仙川に石ハシが宮下橋で、その左下に神明と描かれています。)
カメラ南南西方向に石橋供養塔があります。
カメラ南西方向が上祖師谷神明社参道です。
上祖師谷神明社拝殿前のカメラです。