下祖師谷神明社

マーカーは下祖師谷神明社です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。百万遍供養塔のあった場所は、絵図反転表示の四つ切左上・「上祖師谷」右下方向に、神明、八幡、稲荷と描かれています。)

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。

下祖師谷神明社
[下祖師谷神明社は、世田谷区祖師谷にある神社です。下祖師谷神明社の創建年代は不詳ですが、新田義興義宗正平年間(1346-1369)足利尊氏打倒のために当地を通りがかった際に天照皇大神祠を見かけたといいます。明治6年村社に列格、明治43年には当社境内続きにあった熊野社、稲荷社を合祀したといいます。
新編武蔵風土記稿による下祖師谷神明社の由緒
(下祖師谷村)
熊野社
除地、一段、村の中程少し高き地にあり、鎮座の初を傳へず、社の廻りには松杉の類生ひ茂れり、上屋九尺四方、中にわづかなる社を置、神體白幣を立、拝殿二間に二間半、前に二十級の石階あり。
神明八幡合社
熊野社の地内につづけり。本社はわづかに二尺四方南向、九尺四方の覆屋を構へり。神體各白幣を立
稲荷社
これも熊野社のつづきにあり、社の大さは大抵前と同じ、神體白幣、以上の三社は、いづれも上祖師ヶ谷村の安穏寺の持なり。(新編武蔵風土記稿より)
●せたがや社寺と史跡による下祖師谷神明社の由緒
神明社(祖師谷2-585)
創立、由緒、沿革については不詳である。祭神は天照皇大神、祭礼は10月7日となっている。
喜多見の氷川神社所蔵の神社由緒によれば、創立年月日及由緒等詳ナラズトイエドモ、古老ノ口碑ニ依レパ、正平年間、新田義興・義宗等、皇国ノ賊父ノ仇足利尊氏を打ツ可ク、義憤ノ兵ヲ興シ、各所ニ戦ヒ、勝ニ乗ジ逃ルルヲ追ヒテ、此ノ地ニ来リタル時、小祠在ルヲ見、祭神ノ何タルヲ聞キ、天照皇大神タルヲ知リ、吾ガ憩ヒタルハ皇祖ノ吾ヲ助クルモノナリトテ、戦勝ヲ祈願シ、甲冑ー具ヲ献ジ、兵ヲ励シテ出発セリト。其ノ後、村民崇敬シ、年ト共ニ栄エ、今日ニ至リタルモ、此間ニ当時ノ甲冑ハ、ソノ形ヲ失ヒタリ。
明治6年12月ニハ、村社ニ列セラレ明治41年12月ニハ会計法適用神社立与指定セラレ、更ニ明治43年6月ニハ、熊野神社(祭神・伊邪那美命)ヲ合祀ス。」と記録されている。また、「新編武蔵風土記稿」によると「熊野社ハ除地一段、村ノ中程、少シ高キ地ニアリ。鎮座ノ初ヲ伝ヘズ。社ノ廻リニハ、松杉ノ類生ヒ繁レリ。上屋九尺四方、中ニワヅカナノレ社ヲ置ク。神躰白幣ヲ建ツ。拝殿ニ間ニ二間半、前ニ二十級ノ石階アリ。神明・八幡ハ合社、熊野社ノ地内ニ続ケリ。本社ハワヅカニ二尺四方、南向。九尺四方ノ覆星ヲ構ヘリ。神躰各白幣ヲ建ツ。稲荷社モ熊野社ノツヅキニアリ、社ノ大キサハ大抵前ト同ジ。神幣白幣ヲ建ツ。以上ノ2社ハイヅレモ上祖師ヶ谷村安穏寺ノ持。」とある。(せたがや社寺と史跡より)  (「下祖師谷神明社|世田谷区祖師谷の神社 – 猫の足あと」より)]

神明社 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が下祖師谷神明社参道です。