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世田谷代官屋敷
[東急世田谷線上町駅の南,徒歩5分。近江国彦根藩世田谷領の代官だった大場氏の屋敷で,宝暦3年(1753年)の建築。表門や住宅主屋がよく保存されており,近世初頭の姿を伝えている。このほか,罪人を取り調べる場所だった白州跡などもある。このほか,敷地内には世田谷区立郷土資料館があり、原始・古代から現代までの世田谷の歴史と文化に関する資料を展示している。 (「東京ガイド – 世田谷代官屋敷」より)]
[大場氏は、相模国の豪族・桓武平氏大庭氏の末裔と伝えられる。「石橋山の戦い」で有名な大庭景親が源頼朝の平氏追討軍と戦って敗れた後、その遺児は三河国に逃れ、東条吉良氏に属した。数代を経た後、主家吉良氏に従って東下し、世田谷の地に定住したという。大場家の始祖とされる大場信久は「吉良四天王」と称される吉良家重臣であったが、天正18年(1590)、 豊臣秀吉の小田原征伐で吉良氏と姻戚関係のあった後北条氏が滅亡した後は、世田谷新宿(現・上町)に留まって帰農した。徳川家康の関東入封後、検地の代行を命じられ、さらに、寛永10年(1633)、彦根藩主井伊家が世田谷領15ケ村(後に20ケ村) を拝領した際に、信久の孫盛長は代官に任ぜられた。
以後、明治4年(1871)の廃藩置県に至るまで代官職を継ぎ、領内を統治してきた。世田谷代官屋敷は江戸時代中期の建築で、代官所の中心である母屋は約70坪、茅葺きの寄棟造りで、茅葺きの表門、土蔵、 白州跡などの一部が今も現存し、往時の面影を伝えている。 『「世田谷区郷土資料館パンフレット」、「現地説明板」より』 (「武蔵 世田谷代官屋敷(世田谷区 – タクジローの日本全国お城めぐり」より)]
カメラ南方向が世田谷代官屋敷です。
世田谷代官屋敷内のカメラです。
世田谷代官屋敷敷地内の360citiesです。
世田谷代官屋敷裏庭のカメラです。