マーカーは二子の渡し跡碑です。
「大山道マップ(A3版) (PDF形式 2,966キロバイト)」
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左下・「瀬田」左下方向に二子瀬田渡舩場が描かれています。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図で多摩川の瀬田河原下に二子渡が描かれています。
二子の渡し跡
[江戸時代、江戸幕府は多摩川を江戸防衛の最前線と位置づけていたため、長い間架橋を制限していた。そのため、古来よりこの地を通っていた大山街道は、近年まで渡し船「二子の渡し」(ふたごのわたし)が結んでいた。この渡し船は、人を渡す船はもちろん、馬や荷車を渡す大型の船も用意されていた。江戸時代中期から、橋ができる1925年(大正14年)まで、二子村と瀬田村(現在の世田谷区瀬田)が村の仕事として行っていた。
架橋が幕府によって制限されていた多摩川には各所に渡し船があったが、かつては農民の江戸との交流に多く利用されていた。農民は多摩川沿いや多摩丘陵で穫れた野菜や炭などの物産を江戸(現在の東京都心部)へ運び、その折に契約している地域や家を訪ねて下肥を集め、運んで帰ったという。これにより、当時は世界で最も人口密度が高いながらも、最も美しい都市とも言われた江戸の循環型社会の一翼を担っていた。
また、特に二子の渡しは街道筋であるため、それら農民に加えて行商人や、特に江戸中期以降盛んになった大山詣での人々などにとっても大切な足として機能していた。
一方、かつて暴れ川とも呼ばれた多摩川の水かさによっては、人々は両岸で何日も足止めされる場合も少なくなかったという。そのため、渡し場の周りには茶屋や食事処、宿屋などが集まり、二子・溝口宿は街道沿いの宿場町として発展した。「二子新地」はこの当時の賑わいを今に残す名といえよう。
多摩川はその流路を度々変えたため、二子の渡しもその場所が度々変わったと言われる。かつては二子神社・兵庫島付近に渡し場があったとも言われているが、明治以降は現在二子橋が架けられている場所よりも少し下流(野川合流点付近)の瀬田地先が渡し場跡であった。
1876年(明治9年)1月当時の渡し賃は以下の通りであった。
一人で渡る者 3厘
馬一頭とそれを引く者 9厘
荷車とそれを引く者 9厘 (wikipedia・二子橋より)]
歌川広重・「江戸近江八景の内」より 玉川の秋月(ボストン美術館)
カメラ東方向に二子の渡し跡碑があります。