半田塚

マーカーは半田塚です。

今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部  谷 謙二(人文地理学研究室)首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図に半田塚が描かれています。

半田塚
[半田はかつての小字名で、ここには「半田塚」というものがあります。江戸時代(1828年)に書かれた「新編武蔵国風土記稿」では、「墳墓、半田塚、小名スナハチ半田ト云。コノ塚アルユヘニ地名モ起レリト云。
 ・・・何人ノ墳ナリヤソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ」とあるそうです。ちなみに、松原の「半田」はその後区域が縮小されて「半田塚」となり、赤堤の「半田塚」は「梅檀並」と変更されたそうです。(世田谷区教育委員会の看板より)
半田塚は現在の住所でいいますと、松原6-20になります。  (「松原の半田塚 – 世田谷これまである記 -blog編-」より)]

[半田塚はかなり古くから知られていたようで、江戸時代の地誌『新編武蔵国風土記稿』の松原村の項には「小名スナハチ半田ト云。コノ塚アルユヘニ地名モ起レリト云。高サ四五尺、敷ノ径一間許。何人ノ墳ナリヤソノ来由ヲ伝ヘザレバ、詳ナルコトヲ知ラズ。」とあり、赤堤村の項にも「小名、半田塚、村の巽ノアタリヲ云。東隣松原村ニ半田ト呼ベル塚アリ。(後略)」との記述が見られます。また、この塚には新田氏鎌倉を攻めた際の残党を葬ったという話や、日露戦争から帰ってきた軍人が軍刀を納めたという話など、いくつかの言い伝えが残されているようです。地元の古老の話では、かつては「大塚さま」と呼ばれており、小さな祠が建てられていたそうです。
 「東京都遺跡地図」のインターネット公開版ではこの半田塚は径3m、高さ0.5mの近世の塚とされています。四方を宅地と道路により削られているため本来の規模はわかりませんが、「大塚さま」との名称から考えてもかなり大きな塚だったのかもしれません。元々は古墳円墳)であると考えられているようですが、塚上に立てられている石碑にも「古墳 半田塚」と刻まれています。
 半田塚の入口は施錠されているため敷地内に入ることは出来ませんが、路上からいつでも見学することが出来ます。敷地内には、世田谷区教育委員会による説明板が設置されています。  (「古墳なう 「半田塚」」より)]

半田塚 – Google Map 画像リンク

カメラ東方向が半田塚です。