吉祥院

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マーカーは吉祥院です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図左中央付近・「鎌田」右に吉祥院が描かれています。)

吉祥院
[吉祥院の縁起
吉祥院は、天平12年(740)行基菩薩が開基となり創建、良弁僧正が開山したと伝えられます。建武2年兵火により焼失、世田谷吉良氏が再興したものの没落とともに衰退、江戸期には無住となっていたものを、村人により再建されたといいます。
●世田谷区教育委員会掲示による吉祥院の縁起
大聖山吉祥院
縁起によると当寺は天平十二年(七四〇)行基の開基と伝え、同人の作による地蔵菩薩立像を安置し、東覚山と称していた。本尊不動明王坐像で、開山良弁僧正の作と伝えられている。建武二年(一三三五)、兵乱により堂宇などが焼失し、その後は世田谷吉良氏が当寺を再興するが、天正十八年(一五九〇)主君北条氏の没落と共に滅び、以降は無住となった。近世後期、周辺の村人によって伽藍などが建てられ、現在の配置となる。また、当寺は玉川霊場第六十一番札所である。(世田谷区教育委員会掲示より)
新編武蔵風土記稿による吉祥院の縁起
(鎌田村)吉祥院
除地、二段餘、小名本村の中ほどにあり、新義真言宗橘樹郡小杉村最明寺末、東覚山と称す、寺傳に天平十二年行基菩薩開基なりと云、其比多磨郡鎌田の郷に齢六旬許の貧女あり、地蔵信仰のゆへに行者となり、朝夕御称を唱へて止ときなく供養せしが、其比帝の御願として行基菩薩勅を承り、諸国に伽藍建立の時堂舎を立給ふ、或時彼貧女末来成仏解脱の法をしめし給へと、行基にこふに其志を憐み、数月をへて翌十三年正月廿四日行基再び此里に至り。地蔵の尊像を彫刻し、礼拝供養すべしとてあたへり、其後貧女剃髪染衣の身となり、精舎を建るの志を企てけるに秦氏の某といへる富豪其志を感じ田園をそこばく寄付したれば、堂宇僧坊まで営みしが、後数百年をへて丙丁の災にかkり、堂宇悉く烏有となりしに、本尊は恙がなかりき、建武二年五月十日の兵事によりて、退転に及ぶこと久し、本尊は僅なる草堂を結びて安置し、其後世田ヶ谷吉良家領国の時、金銀仏具を寄付せられ、建立美を盡せり、天正十八年北條家没落の時無旦の寺となり、香花も絶まがちにて、信敬帰依の輩もなかりきといへり。本尊地蔵は木の立像一尺七寸、行基の作と云。
寺寳
不動像一軀。長一尺二寸許、良辯僧都の作と云。
弘法大師自画像一幅。
七観音絵像興教大師筆(新編武蔵風土記より)  (「吉祥院|世田谷区鎌田にある真言宗智山派寺院 – 猫の足あと」より)]

吉祥院 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が吉祥院参道です。

吉祥院本堂前のカメラです。

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