マーカーは品川用水(五本木三丁目32番地先)です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「野澤」右方向、品川用水の世田谷領と馬込領の境界が現在の五本木三丁目32番地先になると思います。)
「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
1896~1909年地図・標高31.7三角点付近が五本木三丁目32番地先になると思います。
「東京府15区8郡時代の町村区分図」 – 「最新交通指導地図荏原郡碑衾町」[地図上方向に品川用水が描かれています。字碑文谷812番地が現在の五本木三丁目32番地と思われます。]
品川用水(五本木三丁目32番地先)
[品川用水は、五本木三丁目32番で世田谷区から目黒区内に入り、目黒郵便局前を経て、目黒・品川の区境沿いに品川区戸越へ流れていた。
寛文9年(1669年)、幕府が品川領11か村の灌漑用に開削したもので、水源の北多摩郡境村(現武蔵野市境)から品川まで、延々28キロメートルに及んだ。流路が長すぎて、下流の品川では常に水量不足気味であったから、利用制限が厳しく、碑文谷村では約2.4キロメートルも用水が流れていながら、その恩恵を受けることはほとんどなかったという。降雨の少ない年には、やむにやまれず盗水をしてしまった碑文谷村民の記録も残っている。 (「目黒のみち 品川用水跡の道 目黒区 – 目黒区役所」より)]
カメラ位置は五本木三丁目32番地先で、世田谷区と目黒区の境界交差点になり、カメラ東方向、西方向に品川用水が流れていました。