マーカーは大吉寺です。
「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」[江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「世田谷」右上に大吉寺が描かれています。]
大吉寺
[せたがや社寺と史跡による大吉寺の縁起
浄土宗に属し、護国山天照院と号し、川崎市上小田中の泉澤寺の末寺である。
本堂は7間に5間に改築され、本尊は阿弥陀如来の坐像で高さ6尺、はじめ世田谷吉良氏の祈願所として真言宗に属していたが、吉良家衰亡とともに、見る影もなく衰えてきた。中興開山縁誉上人超察が、品川の御殿山から旭如来を結縁のため、この地に移したものという。目黒祐天寺の祐天上人、その弟子祐海上人がいたく大吉寺の荒廃を憂え、常に寺運の再興を念とし、その温情により寺運ようやく隆盛に赴いた。その後数度の火災で、多くの寺宝を失ってしまった。寺内にある金仏の阿弥陀如来は池田備前守が発願し、当時の善男善女の喜捨によるもので、その蓮台に寄付者の名前が、数多く彫刻されている。江戸時代には、除地6畝10歩を所有し、また境内に地蔵堂跡がある。
この寺の基地にある江戸時代武家故実学者伊勢貞丈はあまり知られていないが、昭和4年5月に都旧跡に指定されている。この基は、もとからこの寺にあったものではなく、大正11年に港区芝西久保の大養寺から、世田谷に移されたものであり、貞丈の妻や子孫など一族の墓碑も同様である。
貞丈は享保2年(1717)生まれで、天明4年(1784)5月28日68才で没し、墓碑の6月5日行年70とあるのは公儀に届出たとおりを刻したものである。生まれたのも死んだのも麻布鷺森で、享保11年(1726)8月、10才で家を嗣いたが、表向きは12才として届け出ている。
伊勢家は、有職故実で有名であったが、貞丈に至って伊勢家の学は集大成せられ、その著300部に及ぶといわれ、江戸時代における有職故実の最高峰を示すものである。
貞丈には男子がなかったので、竹中氏から養子貞敦を迎えたが、病気のため家を嗣がず、その子貞春には10数部の著述がある。貞春の孫貞友は千賀春樹らとともに「兵丈雑記」16巻32冊を浄書校正して、天保14年(1843)に出版し、家学を世にひろめた。(せたがや社寺と史跡より) (「大吉寺|世田谷区世田谷にある浄土宗寺院、伊勢貞丈墓 – 東京 – 猫の足あと」より)]
カメラ北北東方向が大吉寺山門です。