安穏寺

マーカーは安穏寺です。

安穏寺
[せたがや百景 No.49
武家屋敷風の安穏寺
寛永年間(1624-44)に建てられたといわれるが、一時荒れはてていたため詳しいことは不明。古い墓石には名字を持つものが多く、謎が深まる。車の往来の激しい坂道に沿って、山門や白壁の塀が黙然と存在している。(せたがや百景公式紹介文の引用)
環八の千歳台の交差点から芦花公園、ガスタンクと西へ向かう道は古くからの街道で滝坂街道といいます。榎の交差点までは広く真っすぐの二車線道路なのですが、その先は道が曲がりくねり、車がすれ違うのがやっとの道幅になってしまいます。
車の通行量が多いうえにバス通りにもなっているので、通勤時間帯を中心にしばしば渋滞も起こります。自転車や歩行者にとっては歩道がないので溜まったものではありません。
その滝坂街道の中でも難所といえるのがこの安穏寺前です。道は坂になっているうえに曲がっているので見通しが悪く、車がすれ違うのも大変です。そのカーブの途中に安穏寺の入り口があります。
さて安穏寺なのですが、正式には舜栄山行王院安穏寺と号し、新義真言宗智山派に属し、川崎市小杉の西明寺の末寺になります。
一応墓碑や奉納された石灯籠から、元禄年間(1688~1703年)に吉岡九郎左衛門によって開基されたのではと推測されています。また過去帳などから等々力の満願寺権大僧都元光が寛政年間(1789~1800年)に中興したとも言われています。
明治維新前後18年間は住職が不在となってしまい、近くの東覚院によって管理される事になったのですが、その時に寺は荒れ果て、博徒が入り浸り、博打場として使われていたそうです。
明治18年には風禍によって本堂が倒壊し、大正14年までは再建されず荒廃していました。このときに寺に関する資料など一切は失われてしまいましたが、そもそも江戸初期に書かれた新編武蔵国風土記稿開山、開基の年歴は伝えずとなっていたりします。
現在の安穏寺は過去に荒廃していたとは思えないほどとても整然とした印象を受けるお寺になっています。境内は煩雑な門前の滝坂街道とは打って変わって静かな感じで、植木はきちんと手入れが行き届き、墓地参拝用の桶などもきちんと並んでいて、なんて言うかとても雰囲気がいいです。  (「せたがや百景 No.49 武家屋敷風の安穏寺 <世田谷散策記>」より)]

安隠寺|世田谷区上祖師谷にある真言宗智山派寺院、玉川八十八ヶ所霊場 猫の足あと

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切左上・「上祖師谷」上に安穏寺が描かれています。)

安穏寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向が安穏寺参道です。