用賀神社

マーカーは用賀神社です。

国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図中央左・「用賀」右下方向の「神明社」が用賀神社で、その下後に合祀した八幡社が描かれています。)

用賀神社
[用賀神社の創建年代は不詳ですが、用賀村は永禄元亀年間(1558-1573)に開発されたといい、また合祀した宇佐神社(八幡社)は天正年間(1573-1591)鶴岡八幡宮勧請したものといいます。明治41年当地にあった天祖神社に、(村社)宇佐神社・北野神社・巌島神社・稲荷神社・山際神社を合祀、用賀神社と改称したといいます。
●せたがや社寺と史跡による用賀神社の由緒
用賀神社(玉川用賀町1−84)
祭神は天照大御神で、誉田別命足仲彦命息長足姫命市杵島命菅原道真倉稲魂命大山祇命を合祀してる。
この神社はもと天組神社といわれ、その創立・由緒などは不詳である。合祀社である宇佐神社は天正年間(1573-1591)鶴岡八幡宮よりその御分霊を勧請奉斎したといい伝えられている。宇佐神社は明治5年11月27日村社に指定、明治41年8月11日現在の地にあった天祖神社と宇佐神社・北野神社・巌島神社・稲荷神社・山際神社(何れも無格社)を合肥し、明治41年11月7日地名をとり用賀神社と改めた。
「東京府志料」に「此用賀村、永禄・元亀ノ頃、飯田帯万同図書ナド云ル人ノ開発ナリトイヘトモ(中路)。戸口戸数百五十四戸、内僧侶二戸、平民百五十二戸、人口七百四十人」とあり、また、天祖神社は社地五百坪、明治四十一年村社宇佐神社を合祀して用賀神社と改称した。
例大祭は10月8日・9日、秋祭(新嘗祭)も行なわれている。(せたがや社寺と史跡より)
●新編武蔵風土記稿による用賀神社の由緒
(用賀村)
神明社
除地一段、村内小名下にあり、鎮座の年代詳ならず、社二間に三間、西向前に鳥居あり、両柱の間九尺、祭禮九月廿五日、村内真福寺持。
八幡社
除地九段八畝、是も下にあり、村の鎮守なり、社二間四方、前に鳥居を建つ、両柱の間九尺、祭禮九月十五日、同寺持。
天神社
除地一段八畝、村内北よりにあり、社一間半に二間、是も同寺持。
稲荷社
除地六畝、同じあたりにあり、二間四面、同寺持、この外に水神祠、第六天祠、稲荷社二、凡て四祠村内にあれどもみなわづかなる祠にしてことごとくのするもわづらはしければ省けり。(新編武蔵風土記稿より)  (「用賀神社|世田谷区用賀の神社 – 猫の足あと」より)]

用賀神社 – Google Map 画像リンク

カメラ東北東方向が用賀神社です。