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「国立公文書館デジタルアーカイブ – 江戸御場絵図」(江戸御場絵図表示は南北逆になっていますので、反転表示すると見やすくなります。反転表示した絵図四つ切右下・「下目黒」左方向に碑文谷池が描かれています。)
碑文谷池(碑文谷公園)
[武蔵野台地の東南端に位置する目黒区は、起伏に富んだ、坂の多いまちとして知られる。また、そうした地形から区内の各所で見られるのが、自然の湧水である。目黒川沿いの淀橋台の崖や、目黒台と呼ばれる平坦な台地を浅く刻む支谷の谷頭(こくとう)部(谷の先端)に点在しており、それらの最も代表的な例が、今回紹介する碑文谷公園内の碑文谷池(弁天池ともいう)と、清水池公園の清水池。ともに、今は暗きょ化され、緑道に姿を変えた立会川の水源の役割を果たしてきた池である。碑文谷池、清水池の面積は、それぞれ8,462平方メートルと1,699平方メートル。このように、その規模こそ、かなりの差があるが、この2つは、土地の字名をとって、「三谷の池」「池ノ上の池」と呼ばれた昔から、ほぼ同様の歴史を今日まで歩んできた、いわば「兄弟池」といってもよい間柄。
碑文谷池については、江戸時代、現在よりずっと大きく、また野鴨が豊富であったところから、一時、徳川将軍家の鷹狩りの好適地として重用されたという歴史があるが、以後は、ともに、目黒6か村の1つ、碑文谷村の村持(共有)の水田灌漑(かんがい)用の貯水池として活用された。名主の指揮のもと、村人たちの手で、護岸・水門管理・草取りなどのほか、水が汚れたり、枯れたりしないようにと、それぞれの中ノ島に祭られた農業神、弁天様の祠(ほこら)の維持管理が行われてきた。なお、碑文谷池の中ノ島にある厳島神社の本尊弁天像は、元は円融寺にあり、嘉永元年(1848年)に、碑文谷村地頭(代官)神谷大夢正庸が社殿落成の際に奉献したもの。
シラカシ・クヌギ・コナラなどの木々が生い茂り、今でも、武蔵野特有の湧水池の景観をとどめる碑文谷公園は、今やその規模・知名度・交通の便などの点で、目黒区を代表する公園の1つ。昭和25年に区に移管されて以来、サル・シカ・タヌキなどの小動物のいる動物舎を設け、区内唯一の「動物園のある公園」としても親しまれてきたが、昭和56年公園北側の一角に、ポニー・ウサギ・ヤギ・モルモットなどを放し飼いにして、子どもたちが動物たちとのスキンシップを楽しめる「こども動物広場」が開設された。平成13年には隣接する旧第一勧業銀行の体育館、グラウンドと合わせて約4.3ヘクタールの区内有数の規模の公園となった。 (「目黒区ホームページ – 碑文谷池・清水池(ひもんやいけ・しみずいけ)」より)]
「碑文谷公園 – Google Map 画像リンク」、「碑文谷厳島神社 – Google Map 画像リンク」
カメラ北北東方向が碑文谷池(碑文谷公園)です。